「世間」概念の再検討

小説に現れた「個」と「集団」の関係を手がかりにして

899131 東谷 伸治

指導教官:葉柳 和則助教授

 我々は「世界」を如何に観れば良いのか、そもそも「世界」とは何であるのか。世界を認識しようと試みる日本人は、「世」「世の中」「世間」「社会」などの言葉で、「世界」を把捉してきた。これら世界認識のカテゴリーである言葉を分析することにより、我々は世界を如何に把捉しているのか、その糸口を見つけることが本稿の目的である。本稿では「現代」と呼ばれる戦後日本に焦点を合わせ、検討を行った。
 まず第一章では、「世間」と「社会」という言葉の詳細な比較検討を行う。民族・土着的な「世間」と近代化のコンテクストで使用される「社会」は、それぞれが違った世界を表現している。「社会」という概念を考察することにより、日本における「社会」が自明のものではないということが検証された。そこで、我々は「世間」という概念について考察を進める必要が生じた。以下では、小説にあらわれた「世間」意識を分析していく。
 第二章では、五木寛之の長編小説『青春の門』の主人公である伊吹信介の世界認識の変容を分析する。近代化によるコミュニティーの溶解が、信介の世界認識のカテゴリーである「世間」に与えた影響は大きい。「ウチを持たない個人」となった信介には、「自己とは何者であるのか」という「問い」が、顕在化した。そこで、信介はあの近代化のコンテクストでの世界認識のカテゴリーであった「社会」で、世界を観ようと試みた。しかし、「社会」を生活世界の認識の準拠枠とするのは困難であった。
 第三章では、山崎豊子の『沈まぬ太陽』という小説を素材に、会社組織に属する人々の世界観を模索する。人々は近代組織において「役割」を与えられることにより、そこでの世界観が会社組織に内閉されたものとなっていた。しかし、昨今の経済不況は、会社組織というアソシエーションに長期・全面的に帰属することを許さない。ここで、自己が「何者」であるのかというあの「問い」がまた顕在化してきた。
 以上の考察は、我々に一つのことを示唆してきた。それは、人々が「何者であるのか」を考えざるを得ない時代になってきたということである。かつてのコミュニティーやアソシエーションは、我々に「役割」を与えてくれた。それらは全面的に溶解したわけではないが、「何者」なのかという問いを迫る声は次第に大きくなりつつある。
 この問いを回避することもできる。それは本稿末尾で触れた「小宇宙的世間」である。そこでは、緩やかではあるが「役割」と「安心」を我々に与えてくれる。その世界に内閉し、あの「問い」から逃れられる。もう一つは、多様な世界での「役割」を演技することで、自己をその統一者として認識する「宙ぶらりん的個人」と我々が呼ぶ「個人」になることである。人々が「小宇宙的世間」内閉するのか、それとも「宙ぶらりん的個人」となるのか。それらの優勢を見極めていくことが、我々の今後の考察の対象となる。

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