機上で『抑圧された記憶の神話』をようやく読了する。正月に自宅の居間にねそべり、子供たちが絵本を読んでいる(というか、絵を見ながら物語を紡ぎ出している)横で読むにはちときついところがある本だった。 読んでいるうちに、自分の読みのスタンスに誤りがあったことに気づいた。この本は、学術論文ではなく、エスノグラフィーなのだ。近代科学の方法論にあくまでも忠実であろうとするエリザベス・ロスタフという認知心理学者が、「米国流カウンセリング」とでも言うべき「抑圧された記憶の神話」をリアルなものとして共有する「民族」の世界に足を踏み入れ、そこでフィールドワークを行い、その経験を記述したもの、それがこの本なのである。 前に書いたように、自分の関心が、理論的なものから、文化論的なものに移行するに連れて、そのことが次第にわかってきた。 (「フロイトが知ったら、きっと墓場の中でのけそることでしょう」(p.131)という引用もあった。「今、私を現実に虐待しているものは何か?」「実際に何かがあったかではなく、それをどのように思い出すかが問題だ」(p.400)といった引用からもわかるように、ロスタフは確かにフロイトのパラダイムに新しいものを付け加えてはいないが、そのパラダイムから逸脱することも決してない。これはとりわけアメリカではめずらしいことではなかろうか) ロスタフは愚直なまでに「科学(Wissenschaft)」の方法を守ろうとする。 「科学的な方法論に立つ研究者にとっては、真実にたどり着けるはずだという信念に頼るのはルール違反である」(p. 219) 「科学者は事実を求める。そして反駁可能な仮説を求める」(P.377) 「まじめ」な人なのである。ぶれというものがない。ナラトローグのPetersenもそうだが、こういう人は信頼できる。「信頼できるお父さん/お母さん」という意味で。自分が得意とするところと、そうでないところとの間に明確な線引きができる(あるいは少なくとも、読み手にそのことが分かるように文章を書く)研究者の書くものは読んでいて安心感がある。 ただし読み手というのは我がままなので、「そうでないところ」にまで足を踏み入れてくれないかという期待を抱いてしまう。しかし、「まじめ」な研究者はそうした期待には答えてくれない。 とはいえ、最後まで読んでわかったことは、この本は単なる「報告書」ではなく、十分に「物語化」されているということである。ネガティヴな意味で言っているのではない。各章は基本的に一話完結の枠物語の形式を取り、らせん状に配置されている。らせんをたどってゆくと、私的「症状」に対する説明としての「神話」が、次第に間主観的に共有されてゆき、最終的には集合的な「現実」として自明化する、つまり、反省的な思考を駆逐するプロセスが手に取るようにわかるようになっている。 圧巻なのは、第12章である。ポール・イングラム(虐待者として告発され、フィジカルな現実のレベルでは(つまり、ロスタフという審級においては)一度たりとも起きたことのない犯罪を自ら「細大漏らさず」告白し始めた人物)を主人公」にした物語――それは私的神話が集合的なものに転じていく「恐怖の物語」だ――としてこの章の前半は展開される。「恐怖」が語り全体を支配するようになったころに登場するのが、バークレーの社会学教授リチャード・オフシーだ。オフシーに振られた役柄は「シャーロック・ホームズ」である。検察からイングラムに接見するよう依頼されたオフシーは、知略を駆使して、事件のなぞを解いてゆくのである。 無論、まじめな科学者ロスタフ先生のこと、この章の最後を起承転結の「結」的に締めくくるにはあまりに禁欲的である。ホームズ=オフシーが事件を全面的に解決してくれるのでは、という読者の期待に全面的に答えることなく、あいまいなところはあいまいなままに、解決などないという解決と共に、この章は終わる。 それは続く終章でも同じで、<心の活動の詩歌>という比喩を用いて本全体をまとめようとしつつも、終章に至って、あれこれと他の研究者の論文を引用するという「荒技」を使うことで、物語は「中途半端」に閉じられる。 ここでの「中途半端」という言葉もネガティヴに使っているのではない。物語やメタファーというものの持つ負の効果を問題にするこの本もまた、ある種の物語性や比喩を採用することによって、「説得性」を確保している。これは避けがたいことだ。とすれば、物語が閉じられることを回避すること「結」び目をルーズなものにしておくことは、物語性の吸引力に対するリフレクシヴな批評精神の現れと見ることができるのである。「信じないでいることがどっちつかずで苦しいことだからである」(p.100) これが「物語」の抗い難さの根底にあるものなのだから。 ロスタフがそのことをどこまで「意識」していたのかはわからない。しかし、結果として、この本の物語的構造とその破綻こそが、「まじめな人」ロスタフの語りを信頼できるものにしているのだ。 にしても、結局のところ、「どうしてアメリカではよりによって幼児期の性的虐待なのか」はよくわからなかった。ロスタフはスタン・パッシーという精神科医の「私たちの文化では、地獄のあり場がなくなってしまいました。[……]まさに子供時代こそが新しい地獄として出現したのだ」(p.395f.)という言葉を引用している。しかし、「地獄のあり場がなくなってしま」っているのはアメリカだけではない。近代化と世俗化はコインの表裏のようなものであり、そのプロセスから逃れている国・文化の方が希有なのだから。 それとも、「子どもは本来純真なものだ」という「性的虐待の神話」の前提となるもう一つの神話を無条件に信じるという「人類学的奇習」を持った文化圏こそがアメリカなのだろうか? だが、そう考えたところで、「奇習」の由来を説明しないことには、謎は解けない。うーん。わからん。 が、いずれにせよ、国際社会における最近のアメリカ(人)の行動パターンを見ていると、「純真な子ども神話」を信じられるほどに子どもっぽい人たちがアメリカのマジョリティを占めていることだけは確かなようだ。そういえば、「カウンセリングの目的」は「自由。真実。正義」だと真顔でかたり、この「正義の戦い」が自らの癒しに止まらず、世界の癒しにまで寄与する」「私は怒りと癒し、そして新しい世界の創造に携わっています」と信じていられるのが、虐待カウンセラーでありそのクライアントなのだ(P.220f.)と、ロスタフは言っている。 ちなみに一番ぎょっとさせられたのは、 「幼児性愛者が毒性廃棄物に関心を持つでしょうか」(P.222) という虐待カウンセラーの本『生きる勇気と癒す力』からの引用である。ああこわい。
|
|
|