赤間啓之:『分裂する現実 ヴァーチャル時代の思想』、日本放送出版協会、1997年、p.55-281.
いかに感覚=経験と矛盾しようが、いつの時代も「理念」はそれこそ不意打ちの形で現実に乱入し、世界を見る見方を変えさせる。[……]予測不可能だったという意味で認識も理解も不可能だったものが感覚=経験に馴染んでいるあまたの事象をとつぜん追い抜いて、ぬきんでたリアリティ(感覚的現実性)を得ることもありうる。(赤間:[1977:187])
今ここにあるのは、われわれがこの現実を構成できるばかりか、その構成がそれ自体、決定的な排他性をもちながらも、なおかつ、両立できないはずの他の現実と両立してしまっている(「同じもの」が「別のところにある」)という、能産的な不信である。われわれは不信によって、現実を抹消するのではなく、その代替物をつぎつぎに立てていく。(赤間:[1977:199])
そこ[幼児やパウル・クレーが描くような「混合された横顔」]では、自然には同一の視覚的な枠組みに収まるはずのない事物が、ひとつの「静力学的な構成」のうちに、ごった煮的に共存する。
そうした特殊な共存関係の実現には、しかし対象となる事物の抽象化、記号化、象徴化が必要だった。事物は現実の制限された文脈から溢れ出るためには、まず、言葉とならなくてはならない。(赤間:[1977:209])
等々、共感しつつ頭をスッキリと整理してくれる箇所はたくさんあるのだが、論理の展開が速すぎてついていけない箇所も同じくらいたくさんあった。「野生児、横光利一、オウム事件、丸山圭三郎、シャンポリオン、聾者の言語、パブロフの犬、クリプキ、ラカン、ストア派、パラレルワールド」といった感じで、一見したところばらばらなトピックが、「言語」を媒介にして、結びつけられていく。たった280ページくらいの中で。参考文献にもあたりつつ再読するか、分かるところだけを分かるにとどめておくか悩むところ。
にしてももう少し「自分(たち)以外の読者」への配慮が欲しい。ラカンをやっている人に共通する傾向だろうか。
下河辺美智子:『歴史とトラウマ 記憶と忘却のメカニズム』、作品社、2000年、p.3-35.
赤間の本を機内で読了してしまったので、続いて取りだしたのがこの本。筆者は、フェルマンの名著『女が読むとき 女が書くとき(What does a woman want?)』の訳者。虚構テクストの研究者が、「歴史」とか「記憶」とかについてどのように論じうるのか、今後の展開が楽しみである。
にしても、台湾でのシンポジウムのための基礎固めとはいえ、日本語の本ばかり読んでいるのがだんだんストレスフルになってきた。FrischのStillerについての先行研究や、物語論についての欧米の研究書を読み始めることで、精神のバランスを保つことにしよう。(これはしかし病気かもしれない。外国語の文献を読んで、批判的に再検討することに学問的優位を置いていた近代日本の研究者の職業病だ。)