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☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2003年5月の日記


卒論から学術論文へ
昨日は一日かけて卒業生の須田君の原稿を検討し、コメントを付けた。思ったより難航したが、なかなか考えさせられるところの多い作業だった。

須田風志:『自我像/他者像について〜小説『ライジング・サン』に見る排除/包摂〜』(未公刊原稿)

 優れた卒業論文というものがある。それは多くの場合、バロック的な外観をしている。論文としてのまとまりはあまり良くないかもしれない。つまり、優等生的ではないかもしれない。しかし、その論文の筆者の潜在的可能性が様々な形で姿を現しているような論文である。あるいは、論文の射程が長すぎて途中で力尽きてはいるが、その方向感覚や、道行きのきめ細かさや、未踏の到達点の幻影が、読むものを魅了してしまうような論文。
 (これは最初から狙ってできるものではない。結構の整った論文を書こうと努力してなお整えきれない残余こそが問題だからだ。)
 しかし、こうした意味での「優れた卒業論文」を学術誌にそのまま投稿しても、ほぼ間違いなく審査で不可を与えられる。まさにそのバロック性や未完成故に。
 卒業論文の最も良質の部分を学術論文のスタイルに直すことは、困難な作業である。たいていの人は途中で投げ出してしまう。ゆがんだ真珠から丸い真珠を削り出そうとすれば、ちっぽけな球体しか手にできないような気持ちにさせられるからだ。(私自身の卒業論文もそれ故に手つかずである。)
 それでも、卒論を書いたときの自分の構えがまだ残っているうちにそれをまとめた方がいい。旬を逃すと、自分の方が変容してしまって、かつて書いたものに対して厳しくなりすぎてしまう。ゆがんだ真珠のゲシュタルトが残る程度に磨きをかけた方がいいのだ。
2003年5月1日(木) No.56

絵に描いた餅、あるいは砂上の楼閣
 四月はばたばたと過ぎてしまったが、授業と研究と「お仕事」それぞれにどのくらいの時間とエネルギーを割けそうか、あるいは割かされそうか大体わかったし、科研費の申請が通ったことで、予算に余裕がでたと同時に、もはややるしかない状況も生まれた。
 一ヶ月を振り返って、前期の終了までとその後の研究計画を立てた。
 基本的に、前期終了までは、

1.台湾でのシンポジウムの発表原稿を書くこと(できれば「補遺」を増殖させること)、
2.『シュティラー』についての先行研究を読み、「ほら」の位置づけについて論点をまとめること、
3.『盲人』の翻訳を完成させること。

を研究の三本柱とする。
 ついでに言えば、夏休み中に、昨秋に学会発表した『シュティラー』論を、『ほら吹きの論理と倫理』という形でまとめること、もし可能ならば、これとの関連で『ビンあるいはペキンへの旅』論も書くこと、を目標とする。(ああ、でもそのためにはフロイトのTraumdeutungをちゃんと読まないとなあ)。
 学部の演習は「メディア的なるもの」を中心に基礎固めをして、後期につなげる。後期は演習と講義をジョイントさせながら、出来事・経験と媒介性との関係について考えてゆく。志氣くんと宮崎さんの卒論の「可能性の中心」をその過程で再検討する。

うーん、けっこう立派な計画だが、ここ二三年の仕事量から言えば無謀に近いと評されてもしかたない。
 その一方で、「これだけはやっておきたいテーマリスト」だけがどんどん増えていくのは精神衛生によくない。主だったテーマは自分がやらなかったら人類が滅亡するまで待っても誰もやってくれそうにもないし・・・
2003年5月5日(月) No.57

盲点としての虚構
 「自主講座:歴史・物語・倫理」のために、高橋哲哉の『記憶のエチカ』、『歴史/修正主義』、野家啓一の『物語の哲学』、ジロー先生の「『敗戦後論』とポストモダニズム』」、内田さんのweb日記の中の高橋哲哉に言及している箇所全て、を読み直す。(無論、過去に読んで印を付けておいた箇所だけ)
 高橋の言説の息苦しさについては、ジロー先生や内田さんがきちんと語法分析をやっておられるので、自分としてはそれを整理したり、「追試」したりするくらいしかやることはない。
 高橋、野家、野崎、内田といった論客たちのテーゼの布置をまとめたのちに、はて、この論争において私自身の貢献があるとすれば何か?、と考えると、それは、虚構論、とりわけ現代文学が、出来事の記述についての思考実験として展開した虚構の語りの理論と技法を、補助線として、その布置の中に引いてみることである。
 私が「虚なるものの場所」という言葉で考えているのは、だから、正確には、それが引かれることで事態が以前よりもクリアーに立ち現れるラインのようなものなのだ。
2003年5月6日(火) No.58

連休の谷間の平日、有給休暇を取って何をした?
今年の連休は、4/28、30、5/1、2と有給休暇を取った。ある人のweb日記を読んでいたら、連休の谷間に3日続けて有給が取れるサラリーマンなんかいない、と書いてあったので、はんこ一つで有休が取れる自分は恵まれているのだろう。
 しかし、有給を取って何をしたかというと、<仕事>をしたのである。父親が家にいるのにどうして保育園に行かないといけないのか納得のいかなさそうな顔をしている子どもたちを保育園に送り込み、(なるほどコーヒーやハーブティを片手にではあるが)、時間の許す限り、Lesen und denkenするというのが私の有給休暇の過ごし方なのである。
 とはいっても、我が家の防犯工事の打ち合わせや見積もりにやってきたハウスメーカーの技師やサッシ職人の方と話をしたり、買い物、料理をしたりもしたので、じっくり本が読めたのは、トータルで20時間くらいだったのではなかろうか。30日は須田論文の再検討をやったし。
 
というわけで連休の読書ノート:

Horst Steinmetz: Roman als Tagebuch: >>Stiller<< In: Materialien zu MFS I S.102-126.

「近代のロマーンの一人称形式は、危機に陥った語りの様々な症候の一つである」という実にオーソドックスな一文から出発して、「書き手にとって、自分の伝記と自分の現実とが読みうるものになった。そしてロマーンの読者にもまたその現実は読みうるものになったのだ、なぜならロマーンが日記になったからである」(125)とオーソドックスに締めくくられる。
 ただ、この前ほめておいたデュレンマットのシュティラー論が、「検事の手記」を伝統的リアリズムへの語りだとしてしているのに対し、それは「日記」という形式に対する誤解であるとはっきり述べている点は評価できる(124)。「検事の手記」は、「市民的リアリズム」の外部を示すための「まじめな戯画」という側面があるのだから。

Rolf Kieser: Das Tagebuch als äußere Struktur: >>Stilelr<< In: Materialien zu MFS I S.126-131.

この論文の中のdiaristischという言葉の意味が最後までよくわからなかった。Kieserの「日記」論の全体を知ってから再読してみたい。「「語る。しかしどのように?」 『ビン』から引かれたこのレトリカルな問いがシュティラーの中で答えられるのである。」(131)といった感じで、ポイントを押さえている人なのではないかと予感させるのだ。

Karlheiz Braum: Die vertikale und horizontale Gliederung der Geschichte in Max Frischs Roman >>Stiller<< In: Materialien zu MFS I S.135-139.

プロットからストーリーを再現したり、人物ごとにストーリーを整理したりといった「ハードコアナラトロジー」は、一度は徹底的にやってみるべきだが、何度もやるのはけっこう退屈だ。そこから確かにテクストの不可視の層が可視化して浮かび上がってくるのだが、同時に分析者を完全な第三の審級に位置に置いてしまうのが、退屈さの原因だろう。でも、他の研究者がやってくれる分には、歓迎だ。便利だし。

Michael Butler: Die Funktion von Stillers Gesichten: Isidor. In: Materialien zu MFS I S.140-143.

虚構の物語たちによって、「自分の過去の経験と現在の姿勢を探る」(143)というのは全くそのとおりだ。ただ、そこから先には出ていない。あえて言えば、「シュティラーの周囲の人間たちは彼について自分たちが作ったの元々の偶像に固執して、彼のゲームの規則を承認することを拒絶する」(143)という一節の「Spielregeln」という言葉はポイントを押さえている。といっても、この論文は1976年に出ているから、『伝記』の「ゲーム」の引用なのだろうけど。

Sven Hedin: Ein nordamerikanisches Märchen. In: Materialien zu MFS I S.144-155.

Rip van Winkleとえばアーヴィングの作だと言われているが、それはあくまでも一つのヴァリアントであって、べつのヴァージョンもあるということ。

Peter Gontrum: Die Sage von Rip van Winkle in Max Frischs >>Stiller<<.In: Materialien zu MFS I S.158-165.

力点をずらしたり、正負を逆転したりして引用するのはフリッシュのインターテクスト的方法の特徴だ。それはつまり「変換」の方法なのだ。Gontrumの比較に特に異論はないが、なぜか一つだけ欠落しているポイントがある。それは、リップの失踪の前後でアメリカ社会は決定的な変容を遂げていたが、シュティラーの失踪の前後では逆に絶望的なまでに変わっていなかった。それこそがシュティラーの「沈黙」の原因となるのだ。

Gunda Lusser-Mertelsmann: Die Höhlengesichte als symbolische Darstellung der Wiedergeburt.In: Materialien zu MFS I S.165-171.

ユングを引用して、象徴探しをやるとどうもトートロジカルになるような気がする。「洞窟の物語」自体はきちんと読み解いておく必要があるのは確かだが・・・

Hermann Böschenstein: Stiller - ein neuer Menschentyp. In: Materialien zu MFS I S.173-180.

妙にテンションが高いわりに、どうも伝わってくるものがなかった。こちらの読解力のなさの故か?

Werner Kohlschmidt: Selbstrechenschaft und Schuldbewußtsein im Menschenbild der Gegenwartsdichtung. In: Materialien zu MFS I S.180-193.

『シュティラー』とデュレンマットの『故障』を、カフカの『審理』の系譜に、つまり神の死以降の法廷のモチーフの系列に位置づけているなかなかの力作。法とテクストの関係について自分なりに問題の整理ができた。ただ、キルケゴールを理論的バックボーンとしている人らしく、「超人間的な関連を再発見すること、単なる同時代性という濁った媒体を突破することが肝要なのである。このことが私性(Ichheit)という人工的に作り上げたれた幻想の途上では生じ得ないことを、フリッシュとデュレンマットは示したのだ」(194)という結論にはちょっと待って欲しいと言いたい。この論文が書かれたのは1965年だ。ということはフリッシュの「不信の美学」は既に表明されていた。「私性」にあくまでとどまりながら、そこに書き込まれた「私の外部」を見つけだすことは、決してカミへの回帰ではない。

Michael Butler: Rolf: die Zweideutigketi der Ordnung. In: Materialien zu MFS I S.195-200.

ロルフの手記が、リアリズムの語りの再現ではなく、全知の語り手の不可能性を真面目なパロディの形で明らかにしたものであり、その意味で、Butlerが言うように、「第八の手記」(195)である。その意味でこの論文はSteinmetzの立場に近い。結局のところ、RolfはIch kenne dich!言おうとして言えないというジレンマを、誠実に再現しているとでも言えようか。

以上連休のLesen und denken.
2003年5月7日(水) No.59

竜頭蛇尾
中村雄二郎・野家啓一:『歴史』、岩波書店、2000年。

 中村雄二郎と野家啓一の「メル友交換日記」。高橋哲哉の批判に野家がどのように応えているのかを知りたくて読み始めた。
 話の本筋とは関係ないが、一番の印象は、「要するに中村雄二郎って優れた哲学的触媒だ」ということである。つまり、中村自身の方では、野家への返答の中でほとんど何も新しいことを提示していないのに、その返答を読み、さらに再返答を書くというのを繰り返すことで野家自身の思考が新しい局面へと入っていくのである。(特に最後のあたりの中村のメールなんかほとんど野家の言葉を直接引用しているだけである)。
 そういえば以前、中村と上野千鶴子の往復書簡があった。上野が妙にしおらしい文体で書いていたのでよく憶えている。確かあの本でも、中村はほとんど「触媒役」で、実質的な議論をしていたのは上野だった。
 以前も書いたことがあるが、中村の主著のほとんどは私には「ピンとこない」ものばかりである。(山口昌男との共著の『知の旅への誘い』や『述語集』は割とおもしろいが)。
 たぶん、中村の哲学の中心概念である、「共通感覚」というのが、(いかに生物学的・生理学的根拠を与えられようとも)どうしても「形而上学」っぽいように思えて、すんなり納得できないので、そこから展開する系もまた頭に入ってこないのだろう。

 で、この本だが、前半はいいと思う。「語りえぬものをそれでも語らねばならない」という高橋の主張に対して、中村はそこにある陥穽を次のように指摘する。

「それは語るべきすべてのものを過不足なく一挙に言い尽くしたいという願望です。私の考えでは言語が[ママ]リニアーな性格は、リアリティあるいは存在の全体を一挙に表現するには向いていないにしても、繰り返し何度もリアリティあるいは存在の全体に挑戦できるという特性を持っていると思うのです。しかも、自然言語は使い方によって詩的言語のコノテーションを生かして、イメージ的全体に近づくこともできるのです。」(47)

これは私が高橋(そして岡真理)の言語論に関して感じていたことにつながっている。つまり、高橋はリアリズム的な言語観を自明なものとしており、虚構や否定的媒介といった言語の特性を見落としているのである。
 しかし中村も野家も、それ以上、詩的言語による反復的挑戦の問題を深めようとはしていない。そして、高橋によって「私的想い出から公共性へ」という図式が徹底的に批判されているにもかかわらず(これは納得のいく議論だった)、その「公共の場での語り」を称揚するに至っている。そして最後には「野家は柳田国男を引用することの政治的意味についてもっと慎重であるべきだ」という高橋の主張を、「小児病的」(178)というレッテル張りでもって片づけてしまう。これでは高橋が怒るのも当然であろう。私自身も柳田や亀井勝一郎を引用するときの無防備さについて、野家はもう少し反省的思考を働かせた方がいいと思う。
 とういわけで、竜頭蛇尾というのが正直な感想である。

にしても、野家も中村も「語りえぬものを語る」という問題圏で議論するときにどうしてフロイトに一切言及しないのだろう。謎だ。



キャシー・カールス:『トラウマへの探求 証言の不可能性と可能性』、作品社、2000年。

第二章まで読んだけど時間がないので感想はまたこんど。
2003年5月9日(金) No.60

しかし「よくやっている」な
高橋哲哉:『記憶のエチカ』、岩波書店、1995年、第三章-第五章。

実を言うとこの本の後半はきちんと読んでなかったのだが、最近の読書の流れの中で、高橋は一筋縄ではいかない人なのではないかという気がしてきたのこともあって、最後まで読んでおこうと思ったのだ。
 高橋の考えていることやロジックは基本的にはあまり変わらない。というよりこのブレのなさが彼の特徴であり怖さなのだろう。野家に対しても、アーレントに対しても、高山岩男に対しても、同じように読み、判断してゆく。しかも、雑に読んでいるのではない。それどころか執拗に読んでいるといってもいいくらいだ。(普通の読者は、『物語の哲学』の中に「語りえないものには沈黙しなくてはならない」というテーゼが何回出てくるのか正確に指摘できない)。
 だから、アーレントや高山のようなその仕事についてよく知らない思想家について書かれたところだけ読むと高橋の理説に説得されてしまう。しかし、たとえば野家批判の場合のように私なりに読み込んだテクストに対する高橋の読みを通じて、高橋は組織的にテクストのある層を見落としているのではないか(というか現実のある層というべきか)という疑問が湧いてくるのだ。
 それは一言で表現すれば、<リアリズム、あまりにリアリズム>となる。高橋のロジックの中には、「虚構」や「比喩」や「否定的媒介」の入る余地がないのだ。「嘘をつくことでしか伝えられないもの」などない、現実は言語によって再現しうるのだというリアリズムの思想が高橋のロジックを支えている。
 これが「語りえないものをそれでも語らなくてはならない」という高橋の立場(この立場それ自体は非常に大切だ)との間にきしみを起こしている。ある経験が語りえないということはそれがリニアーな時間経験の外部の経験であり、その存在論的位置もまた日常的な知覚風景の中では確定できないものだ。だからこそ、「語りえないもの」についての語りは、断片的であったり、矛盾していたり、位相がねじ曲がっていたり、奇妙な比喩に満ちていたり、沈黙によって空隙が穿たれていたりするのだ。つまりそれは高橋のリアリズム的再現論の外部にある語りの形式を取るより他ないものである。(そしてこれは同時に20世紀文学の語りでもある)。
 高橋の本を読んで気になっていたことの一つに、論理と実践の間、つまり、「語りえないもの」と「法廷」の間につながらないところがあるというのがあったのだが、それは「ではどう語るのか」「いかに証言するのか」ということについての考察に乏しいということだということが次第に分かってきた。別の言い方をすれば、そのことが自明視されているのではないかという危惧である。
 そういった危惧が大きくなったのは第四章「満身創痍の証人たち」を読んだときである。この章はレヴィナス論だ。レヴィナスの著書をじっくり読んだことはないが、レヴィナス研究者の内田樹の仕事ならかなり丁寧にフォローしているので、読み始めてすぐに、「これは内田さんを通じて知っているレヴィナスとはずいぶん違うな」という印象を持った。
 特に気になったのはレヴィナスの「顔」とか「繁殖性」についての議論だ、高橋の議論だと、「顔」というのはトラウマ的出来事からのサバイバーの<顔>だし、「繁殖性」というのは性行為を通じて子供を作ることだ。そういう意味で言っているのではないと反論されるかもしれないが、少なくとも議論の中で前景化し、ロジックとロジックを繋ぐところで使われているのは、こうしたフィジカルな現実における「顔」であり「繁殖性」だ。
 しかし、たとえば内田樹の『レヴィナスと愛の現象学』(せりか書房、2001年)で描かれいるレヴィナスの思想は、もう少し「反リアリズム」的である。「顔」とか「繁殖性」といった概念はもっと比喩的に使われていた。もし比喩的でないとすれば、レヴィナスはマッチョなリアリストになってしまいかねない。
 高橋にはぜひ『レヴィナスと愛の現象学』についての書評を書いてもらいたいものだ。

コリン・デイヴィス:『レヴィナス序説』、国文社、2000年。

というわけで急遽、レヴィナスの「顔」論についての高橋の議論をマッピングするために、この本を(クサンチッペの本棚から)引っ張り出した。最初の章、レヴィナスによるフッサールとハイデガーの受容と後の対決についての章から読み始めたのだが、明晰なのだがそれなりに予備知識も必要で、30ページくらいしか進まなかった。続きは明日読もう。
2003年5月11日(日) No.61

自分のスタイル
結局、『レヴィナス序説』と『愛の現象学』は、言語論と他者論(特に顔)に関するところだけを再読した。つまみ食い的な読書ではあったが、それでも、高橋の「顔」論が「女性法廷」へと繋がっていく道筋で、読み落とされているものが何であるのかクリアーになった。

それにしても「空気としてのリアリズム」はほとんど資本主義と同じように、二枚腰、三枚腰である。高橋にしろ岡にしろ、リアリズムが19世紀末には既にその不可能性を指摘されていることは「知っている」のである。彼らはそのことをはっきりと書いている。しかしにもかかわらず、彼らの言語論はいつのまにかリアリズムの論理へと回帰しているのだ。

自主講座では、A4四枚くらいのノート兼メモを手がかりにしながらも、1/3くらいは、しゃべりながら考えたことをしゃべっていった。後から思い出せば、不正確なことばかりなのかもしれないが、しゃべっている最中は自分の頭がフルに回転しているような気がしている。

自主講座が終わってから、須田君の論文を再度徹底改稿する。推敲しているうちに、これまた錯覚かもしれないが、原稿の出来はかなりよくなってきた。アカデミック・ハイも少しだけ感じた。

二つの仕事を続けてやっているうちに、自分は確かに、社会学者としても文学研究者としても一流ではないかもしれないが、なんだかんだいいながら確立してきた研究と教育のスタイルには、おそらく自分にしかできないものが含まれているのだから、それでいいのだ、という気持ちになってきた。
2003年5月14日(水) No.62

内容としての文体
ここ数日、じっくりと本を読んでいる余裕がなかった。時間的にも気分的にも。その間に読んだのは、内田樹の新作二冊と高橋哲哉の『戦後責任論』の一部のみ。(この組み合わせがなんともイロニカルだが・・・)
内田さんの『夜ため』(角川書店)と『非中枢的』(新曜社)については、別の場所で感想を公開すし、『戦後責任論』については明日の自主講座で話した後、レジュメがアップロードされることになっているので、ここでは詳しく書かない。

一つだけ書いておきたいのは、『夜ため』と『非中枢的』では販売部数で言えば、前者が圧倒的に多いであろうが、本としての出来はどう見ても後者であるということである。
 昨日、クサンチッペとも話したのだが、文体が放っているオーラが違うのである。私とクサンチッペは全く違うタイプの本読みだが、たまには同じ本に対して同じ評価を下すことがあって、そんなときの評価はたいていの場合何年たっても訂正する必要に迫られたりしない。
 だから10年後、20年後によりたくさんの読者を見いだしているのは『非中枢的』だ。きっと。
2003年5月19日(月) No.63

ねむいので簡略に
ねむくなってきたので簡単に書く。
火曜日は、岡真理の著書二冊をリアリズムとの関係で再読して、自主講座のためのノートを作った。
水曜は、しばらくほったらかしにしてあった、UMFと『汝の欲望を愛せよ』の続きを読んだ。
2003年5月22日(木) No.64

大物主義には根拠がある
Kurt Martli: Das zweite Gebot im >>Stiller<< von Max Frisch. In: Materialien zu MFS I S.211-216.

Karhleen Harris: Die Kierkegaard-Quelle zum Roman >>Stiller<< von Max Frisch. In: Materialien zu MFS I S.217-219.

Philipp Manger: Kierkegaard in Max Frischs Roman >>Stiller<<. In: Materialien zu MFS I S.220-237.

Hans Mayer: Anmerkungen zu >>Stiller<<. In: Materialien zu MFS I S.238-255.

今週は時間をみつけて『シュティラー』におけるキルケゴール受容を論じた論文を読んでいった。
 フリッシュの場合、ある思想の体現としての作品という図式は当てはまらないというのは、私にとっては既に自明のことだったのだが、かなり長い間、「『シュティラー』の筋や形式は冒頭にかかげられたキルケゴールの思想にどこまで忠実であるか?」という枠組みの中での差異が問題になっていたようだ。
 そんな中で、Hans Mayerの議論は、キルケゴールの思想もまた複製文化のカタログに載せられた一アイテムに過ぎないことをはっきりと指摘している。いかなる思想も紋切り型を際せサンするための言説装置に堕する可能性を排除することはできないのである。
 だから、フリッシュによって為されるいかなる引用もアイロニカルである。言葉と現実との間のズレを顕在化させることが問題なのだ。ズレが生まれ続けることによって、思想の物象化は避けられるのだ。
 こうした問題を指摘しているのはマイアーだけだった。研究としてやっている以上、無名の学者が書いた論文の中にも新しくかつ啓発的な知見がある可能性があることを前提にしなくてはならないのだが、やはり無名の人の論文はスカが多く、マイアーやラニッキのような大物は、気軽に書いた評論の中にもかならず「おっ」と思わせる数行を忍ばせている。
2003年5月25日(日) No.65

なんでこんなにうまく話がつながるんだろう?
P.L.バーガー=T.ルックマン:『日常世界の構成 アイデンティティと社会の弁証法』 新曜社 1966=1977。

井上俊・仲村祥一(編):『うその社会心理 人間文化に根ざすもの」 有斐閣 1982。

J.v.ユクスキュル:『生物から見た世界』 思索社 1934=1970。

丸山圭三郎:『欲動』 弘文堂 1989。

環境科学概論Aの準備のためにこれらの本を再読する。
ユクスキュルの「環境世界論」の批判的再検討の系譜の中で、なぜ、文化環境が問題なのかを論じようと考えていたのだが、この系譜というものが思考の形として、思っていたよりもはるかに密接な呼応関係があることがわかった。

いろいろな研究者の議論の中に一本の縦糸や横糸を発見するとわけもなくうれしくなってしまうのは私だけだろうか。
2003年5月26日(月) No.66

空気としてのリアリズム
月曜の午後から火曜日にかけては、野家啓一の物語行為論の出発点である『物語の哲学』批判的に再検討することに焦点を当てた。

ノートを作り、自主講座で話をしながらつくづく感じたのは、「空気としてのリアリズム」のもつ自明性のの恐ろしさである。前回の岡真理や高橋哲哉もそうだったが、彼らに批判される側の野家もまた、理論のレベルではリアリズムを批判しながら、同時にリアリズムの問題設定の圏内で対象にアプローチしようとしている。少なくともそういう傾向が散見される。

私の見立てでは、三人の中で、理論と身振との乖離が一番大きいのは野家である。野家の提唱する、「小さな物語りのネットワーク」というヴィジョンは非常に魅惑的であるにもかかわらず、その「物語り」がリアリズムの枠内に収まるものだけに限定されることが、いかに野家の思想の幅を狭くしていることか。

そしてそのことが「語りえないもの」を自らの思想の中に明確に位置づけることを困難にしていると言うことに野家は気づいているだろうか?

実にもったいない話である。
2003年5月28日(水) No.67

画竜点睛を欠くを恐る
須田君と連名で発表する論文の締切が今週末に迫ってきた。
昨日の晩と今日の大半を最後の推敲に充てた。
何というか、いくつ間違いがあるのか教えてもらえずに、間違い探しをやっているような気分だ。
須田君の名誉のために言っておけば、彼から送り返されてきた改訂第三稿は決して悪い出来ではない。ただ、論の流れが時々乱れるのだ。というか、自分が論文の中でウリにしたいことを強調するための「押したり引いたり」が不十分なのだ。

無論、こういうのはある種の経験値がものを言うのであって、駆け出しの研究者である彼にそれを求めるのは酷かもしれない。

須田君が最初に出してくれたたたき台は既に50%も原型を留めていないかもしれないが、その「可能性の中心」はきちんと残し、かつメリハリをつけて際立たせてあるつもりなのだが・・・

こんな共同作業は二度とごめんだと言われないことを祈るのみである。
2003年5月28日(水) No.68

何か方向がばらばら
午前中はゼミの準備のために、マクルーハンの『メディア論』を読む。
ゼミが終わってからは、論文の執筆申込のために、去年の秋に発表した『シュティラー』の   「ほら吹き」論についての原稿を読み直し、秋以降考えたことに基づいて修正を加えながら、1600字ほどの要約を書いた。
それが終わってから明日提出する、「言説環境としての日本論」を読み直す。

これら三つが全くつながっていないわけではなく、メディアのメディア性への反省的眼差しという点では共通しているのだが、さすがに一日でこの三つに取り組むのは無謀だったようだ。

一年半ぶりくらいに頭痛がする・・・・・・
2003年5月30日(金) No.69


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