昨日は一日かけて卒業生の須田君の原稿を検討し、コメントを付けた。思ったより難航したが、なかなか考えさせられるところの多い作業だった。
須田風志:『自我像/他者像について〜小説『ライジング・サン』に見る排除/包摂〜』(未公刊原稿)
優れた卒業論文というものがある。それは多くの場合、バロック的な外観をしている。論文としてのまとまりはあまり良くないかもしれない。つまり、優等生的ではないかもしれない。しかし、その論文の筆者の潜在的可能性が様々な形で姿を現しているような論文である。あるいは、論文の射程が長すぎて途中で力尽きてはいるが、その方向感覚や、道行きのきめ細かさや、未踏の到達点の幻影が、読むものを魅了してしまうような論文。 (これは最初から狙ってできるものではない。結構の整った論文を書こうと努力してなお整えきれない残余こそが問題だからだ。) しかし、こうした意味での「優れた卒業論文」を学術誌にそのまま投稿しても、ほぼ間違いなく審査で不可を与えられる。まさにそのバロック性や未完成故に。 卒業論文の最も良質の部分を学術論文のスタイルに直すことは、困難な作業である。たいていの人は途中で投げ出してしまう。ゆがんだ真珠から丸い真珠を削り出そうとすれば、ちっぽけな球体しか手にできないような気持ちにさせられるからだ。(私自身の卒業論文もそれ故に手つかずである。) それでも、卒論を書いたときの自分の構えがまだ残っているうちにそれをまとめた方がいい。旬を逃すと、自分の方が変容してしまって、かつて書いたものに対して厳しくなりすぎてしまう。ゆがんだ真珠のゲシュタルトが残る程度に磨きをかけた方がいいのだ。
|
|
|