環境科学概論Aのために週末に読んだ本。ただし、山岸の本以外は再読。
見田宗介:『現代社会の理論 ―情報化・消費化社会の現在と未来』 岩波書店 1996。 R. マリー・シェーファー:『世界の調律 サウンドスケープとはなにか』 平凡社 1977=1986 山岸美穂・山岸健:『音の風景とは何か サウンドスケープの社会誌』 日本放送出版協会 1999。
最近、見田の名前を聞く機会がすっかり少なくなった。確かに、今読むと見田の「明晰さ」が見落としているものがたくさんあることに気づきはする。しかし、そのことは見田を読むことが今では不必要になったということを意味しはしない。見田自身の方法がそうであったように、「批判の対象をその可能性の高みにおいて乗り越える」というプロセスを経ることは不可欠なのである。見田もそれを望んでいるだろう。
それ以外に読んだのは、
キャシー・カールス:『トラウマへの探求 証言の不可能性と可能性』、作品社、2000年。
の第2章から第11章まで。
5月の始めに第2章の途中まで読んだままになっていたのだが、自主講座の話の展開からして、今月の末あたりにトラウマ論について考えることになりそうなので、再び読み始めた。
そもそも何で途中で読書を中断していたかというと、「なぜかスピードが出ない」からである。特に第二章の
ショシャナ・フェルマン:「教育と危機、もしくは教えることの波乱」、p29-100.
を読むのが「重かった」。
おもしろくないというのではない。その反対だ。ただ、一つ一つの言葉に呼び止められて、なかなか先に進めないのだ。それは、トラウマというテーマが「証言」と「応答」のプロセスの中に読者を参入させてゆくからであり、同時に、フェルマンの論文が、彼女がイェール大学で行った講義の記録という形を取っていて、その一回、一回の展開にこちらの思考をできるだけ合わせようとすると、どうしてもゆっくりとした読みになってしまうからでもある。
ここには大学での「講義」というものがもちうる極限の形がある。フェルマンの講義に出られる学生というのは幸せだ。
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