論文は一応書けたのだが、あらかじめ提出しておいた要旨に対応している箇所以外を、涙をのんで切っていったら、ずいぶん平板な論の構成になってしまった。
毎度のことながら、論文の仕上げの段階になると、減量しながらも体力を落とさないように気をつけるボクシング選手になったような気分に陥る。
考えてみれば、論文というのは、言説の戦いだから、それは当然なのかもしれない。
いかなるスタイルで書かれた論文であろうと、それが論文である限りは、戦いや争いの比喩から完全に自由であることはできない。
「だから私はみんながハッピーになれる文体で書くんだ」という言う人はそうすればいい。
しかしそれはすでに論文ではないし、大抵の場合、「一人上手」の圏域から出ることはできない。
論文という言説のスタイルが、進歩と戦争の時代の産物であることを知りながらも、その内部にとどまって、そこに少しだけ切れ目を入れるという方法を私は採る。
そうこうしているうちに、週明けにくらいまでなら、待ってくれそうな感触を得たので、時間を見つけては推敲をつづけた。しかし、もともと論の構成が大きすぎるので、20000字程度でまとめようとすると、どうしても読み手(今回は聴き手)に不親切な論文になってしまう。もっと正確に言えば、読み手の背景知識を前提にし過ぎていて、結局は少数の読み手にしか届かない言葉になってしまっている。
最近どうもこの傾向が強くなっている。丁寧な論証をしようとすると本論にたどり着くまでの道のりが遠いものになり、ポイントだけを押さえて論じようとすると(少数の読み手以外には)飛躍の多いものになる。
それはもちろん一つには自分自身の力量の問題なのだが、他方、学問の世界にも「大きな物語」などもはや存在せず、議論の通約可能性が小さくなってしまっているということにも由来しているような気がしてならない。
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