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☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2003年8月の日記


減量とストレッチの日々
論文は一応書けたのだが、あらかじめ提出しておいた要旨に対応している箇所以外を、涙をのんで切っていったら、ずいぶん平板な論の構成になってしまった。

毎度のことながら、論文の仕上げの段階になると、減量しながらも体力を落とさないように気をつけるボクシング選手になったような気分に陥る。

考えてみれば、論文というのは、言説の戦いだから、それは当然なのかもしれない。

いかなるスタイルで書かれた論文であろうと、それが論文である限りは、戦いや争いの比喩から完全に自由であることはできない。

「だから私はみんながハッピーになれる文体で書くんだ」という言う人はそうすればいい。

しかしそれはすでに論文ではないし、大抵の場合、「一人上手」の圏域から出ることはできない。

論文という言説のスタイルが、進歩と戦争の時代の産物であることを知りながらも、その内部にとどまって、そこに少しだけ切れ目を入れるという方法を私は採る。

そうこうしているうちに、週明けにくらいまでなら、待ってくれそうな感触を得たので、時間を見つけては推敲をつづけた。しかし、もともと論の構成が大きすぎるので、20000字程度でまとめようとすると、どうしても読み手(今回は聴き手)に不親切な論文になってしまう。もっと正確に言えば、読み手の背景知識を前提にし過ぎていて、結局は少数の読み手にしか届かない言葉になってしまっている。

最近どうもこの傾向が強くなっている。丁寧な論証をしようとすると本論にたどり着くまでの道のりが遠いものになり、ポイントだけを押さえて論じようとすると(少数の読み手以外には)飛躍の多いものになる。

それはもちろん一つには自分自身の力量の問題なのだが、他方、学問の世界にも「大きな物語」などもはや存在せず、議論の通約可能性が小さくなってしまっているということにも由来しているような気がしてならない。
2003年8月4日(月) No.124

仕上がっていく感じ
編集担当のL先生が留守にしているのを幸いに、論文原稿の手直しを続ける。

いつも言っていることだが、同じ素材を同じ順番に配列しても、細部の仕上げのやり方によって、その論文の与える印象はずいぶん違ってくる。二日にわたって細かい言い回しや語句を書き直したおかげでだいぶ「バリ」が取れた。

最後の推敲作業におけるこの「仕上がっていく感じ」というのは実に気持ちがいい。論文を「要約」してしまえば、切り捨てられるだろう箇所を修正しているのだが、論の本筋を組み立てているときよりも楽しいのはなぜだろう。

(逆に言えば、仕上げの雑な論文はあまり買わない)

とはいえもともと、論の構成が大きすぎるので、それぞれの分野の専門家からみると隙だらけの議論になっているかもしれない。あと半日だけ時間をかけて、できるだけていねいな仕上がりにしよう。
2003年8月6日(水) No.125

nichts neues
今日は、夏休み前に片づけておきたい/おかねばならないいくつかの雑務をこなしているうちに過ぎてしまった。空しい。論文の仕上げをしたいときに、丸一日それができないというのは精神的にかなりきつい。まあ、私の数倍の集中力で雑務を片づけ、いい論文を書いている人がたくさんいるわけだから、あまり言い訳にはならないのだが・・・

ただまあ、雑務の中では比較的研究に近い仕事である、ゼミの本の整理作業をしているうちに、何冊か今の問題意識に直接関わってくる本を見つけたので、疲れはだいぶ癒された。
2003年8月7日(木) No.126

再開
論文を出し終えて、二三日は高揚感が持続していたが、週末に子供たち中心の生活をしているうちに疲れが出てきてしまった。後頭部から腰にかけて、凝りというか、血流の悪いところが散在している感じがする。

背筋が弱ってるのだろうか。

こういうときはあまり消極的にならずに、軽めの負荷を一定のリズムで頭と体に与えていった方がいい。

留学中を除いてほとんど毎年、夏休み明けには論文の〆切があったのだが、今年は某学会誌から門前払いを食らったので、「自主トレ」モードで夏の後半を過ごすことになってしまった。

門前払いと書いたのは、投稿して落とされたのではなく、「今年は投稿希望者が多いので、一昨年に掲載されたあなたには遠慮してもらうことになった」という趣旨の通知が来たからである。学会誌の規約には、二年連続の掲載は禁止、としか書かれていないのに、「なるべく多くの会員に執筆機会を与える」という明文化されていないルールを優先させているのだ。まあ、この学会にはいろいろな意味でお世話になったので、あまりアグレッシヴなことを書くつもりはないが、学会誌のレフリー制についてのスタンスが私とはかなり違うことが今回の件でよくわかった。変われないんだろうな、あの業界も、あの学会も。かといって変わろうとして明らかに悪い方向へ向かっている事例もあるので、何らかの哲学に基づいて、これまでのやり方を守り抜くというのであれば、それはそれで認めるのにやぶさかではない。

この雑誌に投稿しようと思っていたネタは、少し短めの論文にまとめ直して、来年早々に別の雑誌に投稿することにした。もう一年待てば先の雑誌に投稿できるだろうが、こちらにはこちらの論文執筆計画というものがある。旬を逃すわけにはいかないのだ。

ともあれおかげで、一ヶ月半あまりの「自主トレ」期間ができた。自主トレのメニューは:

1. 『シュティラー』関係の二次文献をフォローする(独)。
2. 『盲人』の翻訳を完成させる(独→日)。
3. ヘイドン・ホワイトの『比喩的リアリズム』を読む(英)。
4. 読もうと思ってもなかなか読めない分厚い本に挑む。(とりあえずリクール:『時間と物語』(日)、ベンヤミン:『ベンヤミン・コレクション』(日(&部分的に独))は必読。できればフロイト:『夢解釈』(日&独)も)
5. 夏の前半にまとめた論文のlong versionを書く。4倍くらいの長さに。ノートはある。
(6. 須田君との連名論文に対するレフェリーのコメントに応えて部分的に改稿する。これはまあ、一週間以内になんとかできるだろう。)

とまあ、こんな感じである。もう十年以上、一つのメニューを全部こなしてから、次のメニューへというやりかたでやってきたが、考えてみれば、これはほぼ半年ごとに論文か発表かの〆切が迫ってくるように自分でスケジュールを組んでしまっていたからであって、別にそれがベストなやりかたというわけではないだろう。

この夏は試しに、五つのメニューをそれぞれ少しずつ順番にローテーションさせてみることにする。各メニューにはテーマに(細々とした)つながりがあるので、相乗効果が出てくるのではないかという甘い期待もなきにしもあらずである。

とりあえず明日はホワイトからスタートしよう。
2003年8月11日(月) No.127

ローテーションは早くも崩れ
・ポール・リクール:『時間と物語 I』 新曜社 1987年。

結局今週は『時間と物語』を読むことが中心になってしまった。全三巻のうちの一冊目は第一部「物語と時間性の循環」と第二部「歴史と物語」から成る。第一部第一&二章のアウグスチヌスとアリストテレスのところをなんとか乗り越えると、第三章「時間と物語」でようやくリクールの構想の全体が見えてきてほっとする。
 「自主講座」で「語りえないもの」について考えてきたことによってアンテナの張り方が変わってきたので分かったことだが、「表象の限界」事例をリクールが「偏差」とか「逸脱」という語彙で捉えようとしているのがどうも気になる。つまり、「語りえないもの」を「かたりえるもの」の圏内に納めてしまうための論理を支える言い回しが「偏差」であり「逸脱」であるように思える。この巻ではそのことは充分には見えてこないが、おそらく第二巻でモダニズムの文学の形式を扱うところで前景化してくるはずだ。
 第二部「歴史と物語」は、はっきり言ってしんどかった。ここでは主立った歴史理論家の著作を逐一比較検討されているのだが、ホワイトとダントという物語派の人たち以外、全く読んだことがないので、論の流れについていくだけで精一杯であった。
 考えてみれば、私にとっての「歴史」とはまず第一に個人史なのだが、どうやら「歴史学」の世界では個人史はそれ自体では「歴史」を構成するものではないようなのだ。私ならまずは主観的な経験からスタートしてそれが集合的な経験に接合する地点を探ってゆくが、「歴史学」では、集合的な経験すらも、場合によっては単なる突発的な事件として扱われ、歴史家の視線はもっと長いタイムスパンにおける持続と変化の法則に向けられている。私が個人的によく知っている歴史家はみなもう少しミクロな出来事に焦点を当てているのという印象があるのだが、彼らもまた最終的には「持続と変化の法則」を見出すことを目指しているのだろうか?

・ポール・リクール:『時間と物語 II』 新曜社 1987年 p.1-18。

第一巻を読み終えた勢いで第二巻に突入したところ。この巻のタイトルは「フィクション物語における時間の統合形象化」。領域が歴史物語からフィクション物語に移ったとたん、理解度と読むスピードが高まるのが体感できる。あらためて第一巻が第一部の第三章を除いて難行であったことが分かる。もともと歴史的な視点に乏しいのが私の欠点の一つだと思うが、そもそも歴史学の基本書をほとんど読んでいないということが改めて浮き彫りになった。

・Hans Jürg Lüthi: Max Frisch Francke 1981 S. 60-76.

リューティのフリッシュ論から『シュティラー』に関する章を抜き出して読んだ。論理として折り目正しく書かれた論文だと思ったが、「シュティラーはなぜほらを吹くのか」という点についての言及には乏しかった。超越を受け入れることを前提とするロルフの立場とそれゆえの安定的な同一性に対するフリッシュのアイロニカルな視線に対する言及がないのが最大の問題だろう。

・Hayden White: Figural Realism The Johns Hopkins University Press 1999. p.vii-ix & 1-13.

現在出版されている中ではホワイトの最も新しい論考が収められている。今読みかけているのは「文学理論と歴史記述」という章。ホワイトの英語は多少癖があるが、全体としては読みやすいと思うのだが、リクールの場合と同じで、歴史学に関する背景知識に乏しいので、細部を理解するのに時間がかかる。まだ20ページくらいしか読んでないので何とも言えないが、『メタヒストリー』(1973)の頃に比べると、ホワイトの唯名論的傾向は強くなっているようだ。
 にしても未だにホワイトの著作が、『現代思想』とかでの抄訳を除いて、ほとんど翻訳されていないのはなぜなのだろう? 平凡社から『メタヒストリー』の翻訳が出るという話は既に10年以上前に聞いたような気がするのだが、訳を担当している人が病気に出もなったのだろうか? ダントとかラカプラとかの著作は既に翻訳されている訳だから、よけい理由がわからない。

Der Blinde S.198-200.

翻訳を再開。でもあまり進まない。というかリクールを優先してしまった。今日は頑張って4ページは進めよう。
2003年8月15日(金) No.128

読みにくいのはなぜ?
・ポール・リクール:『時間と物語 II』 新曜社 1987年 p.19-116。

昨日の続き。話がグレマスの物語記号論のところに入ると一気に難しくなった。昔からこの人とは相性が悪い。用語の問題もあるのだろうが、どうもリアリティを感じられないのだ。グレマスについての検討がようやく終わって、「物語る時間」と「物語られる時間」の分裂と統合が話題になると急に読みやすくなる。

・Doris Kiernan: Existenziale Themen Bei Max Frisch De Gruyter 1978 S. 17-25.

リクールを読むのが結構大変なので、気分転換にフリッシュについての二次文献を読むことにした。昔は二次文献の完璧なフォローを目指していたが、最近は次第に「主要文献だけ」に後退しつつある。手抜きといえば手抜きなのだが、「電話の法則(あなたにかかってくる電話の8割は2割の人からである)」でいかないと、やりたいことが増えていくばかりである。あるテーマに関して、博士論文はもちろんのこと、マイナーな雑誌に出た論文や修士論文まで調べ尽くすのは、自分自身の博士論文で最後にしようと思う。
 Kiernanはこの本の中でフリッシュとハイデガーの思想に類縁性を見出そうとしている。約10年前にHomo faberに関するところだけ、つまり全体の2/5は読んでいたのだが、久しぶりに引っ張り出してみた。しかし、私の関心からするとあまりにも内容の比較に走りすぎていて、物語行為の次元がすっぽり抜けているせいか、どうも手応えを感じない。まあ、もう少し読んでみるか。

今日こそは翻訳をやろう。
2003年8月16日(土) No.129

無意味の輝き
Der Blinde S.201-207.

本当は翻訳の仕事は一気に片づけた方がはるかにいい。時々しかやらないと、ある単語を前にどの訳語をあてたのか、漢字にしたのか仮名にしたのかといったことを忘れてしまう。特に今訳しているのは戯曲だから、人称代名詞やそれに類する語句にどのような訳を選ぶのかということと、文末表現をそれにうまく対応させるかとうことが、キャラクターのイメージづくりに決定的な影響を与えてしまう。しかも舞台が三十年戦争で、王から兵士、娼婦まで出てくるとあっては、エクリチュールの問題はほとんど死活問題だ。

Man führe sie zu mir.が「彼女を私のところにつれてきてください」なのか「その女をおれのところにつれてこい」なのか「その者をわしところに連れて参れ」では日本語としては全然違うニュアンスになってしまう。

一人の登場人物がどのようなエクリチュールの圏内にいるのかをテクストから読み取ると同時に、それを日本語のレベルで一貫させる必要がある。そのためには一気に訳した方がいいに決まっているのだ。
といったことは分かっているのだが、どうしても論文のための準備を優先してしまう。

翻訳のための頭の使い方と論文のための頭の使い方は全く違う。すばらしい翻訳をする人が論文を書かせるとまったく陳腐ということはよくあるし、その反対もある。両方できればベストなのだろうが、少なくとも自分に関して言えば、二つの間での頭の切り替えはけっこう大変である。

とりあえずこの週末は翻訳モードでいこう。

にしても、果てしなき虚無と無意味を追求した初期デュレンマットの戯曲の黒々とした輝きは、何度読んでも失われることがない。それに比べると、中期以降の戯曲は、芝居としては成功してるんだろうが、どうも手慣れた感じがして再読しようという気にはならない。
2003年8月17日(日) No.130

nichts neues
暇を見つけて翻訳をやるつもりだったが、全くできず。
2003年8月18日(月) No.131

小説を読むのの1/3以下の速度で
・ポール・リクール:『時間と物語 II』 新曜社 1987年 p.117-202。

あまり時間がとれなかったので、これだけ。それでも今日中にIIを読み終えられるかも。

この本のタイトルが『物語と時間』ではなく、『時間と物語』なのは故なしではない、ということが次第にわかってきた。なんでって、誰の理論を検討しているときでも、最後は、時間をどのように位置づけいているかというところに話が行き着くからである。

ナラトロジーについて書いてはいるが、この人は基本的に哲学者なのだろう。
2003年8月19日(火) No.132

反故
結局、須田君との連名論文に対するレフェリーからのコメントに応えて原稿を修正し、編集委員の方に発送するだけで半日が過ぎてしまった。

全体を通読してみて、まあ、これで落とされることはまずないだろうという感触を持った。

私にとってはともかく、須田君にとっては初めて活字になる論文である。なにはともあれ、おめでとう。

こういった形でのサポートは修士課程の学生にしかしないことにしている。博士課程に入ったら一人前じゃなくても一人前のようにふるまうことが大切だからである。

須田君、次は、修論の「おいしい」ところをまとめて、単独で学術誌に投稿して掲載されることを祈っています。(と書きながら、この言葉が実はとてつもないプレッシャーだということをたぶん彼は知っているだろう・・・いや、なに、プレッシャーを楽しむくらいでないとね)

発送が終わってから、リクールの続きを読み始めたのだが、十ページも進まないうちに保育園へのお迎えの時間がきた。

本日打ち止め。
2003年8月20日(水) No.133

症状としてのレフェリー付き紀要
編集委員から連絡があって、まあこれで問題なく掲載されるだろう、とのこと。にしても、紀要に外部レフェリーを導入するというのは、新機軸というよりは前代未聞という言葉によってより的確に形容されてしまうような気がする。自由な形式で書けるメディアが次第に少なくなってきているのはあまり健全な現象ではない。この紀要問題一つ取っても、現在の大学が抱えているさまざまな問題がありありと見えてくる。

・ポール・リクール:『時間と物語 II』 新曜社 1987年 p.201-307。

第II巻をようやく読了。こちらのアンテナの指向性と感度からすると細かすぎる議論が展開されている箇処をきちんと理解できたかどうかいささか心許ないが、いよいよ第III巻で歴史記述と虚構の物語の関係が明らかになるという期待は高まってきた。ただし、自分が期待していたのとは方向がやや違うのではないかという感じがなきにしもあらず。

要するに「統合形象化」という概念を導入することで、どうしても「筋」へと翻訳できない経験のための場所がリクールの物語論には見出しにくいのである。というか、そういった「統合」不可能な経験を「中性化」する方向にリクールの議論は進んでゆくような気がするのである。そこにおける虚構的なものの位置づけは、語りえぬものをそれでもなお語ろうとするというアポリアに由来するモダニズム以降の語りの実践を、伝統的な語りの変種として扱ってしまうことにつながるのではなかろうか。

・Doris Kiernan: Existenziale Themen Bei Max Frisch De Gruyter 1978 S. 33-48.

この前の続き。ある思想家とある作家がだいたい同じようなことを言っている、という発見をするところから、両者の基本的なスタンスにみられる微細な違いを常に意識しながら、細かく比較してゆく作業までの道のりは、Kiernanがやったよりも遠い気がする。しかし、1978年という出版年を考えれば、多少の問題には目をつぶるべきなのかもしれない。
2003年8月24日(日) No.134

三週間近く留守にするとはや異邦人
・Doris Kiernan: Existenziale Themen Bei Max Frisch De Gruyter 1978 S. 60-72 88-92.

時間を見つけてぼちぼちと読んでいる。この本は、バークレーに提出した博士論文が元になっている。ということはKiernanはドイツ語のネイティヴではないということだろう。ネイティヴじゃなくてもこれくらいドイツ語が書けるというのは尊敬に値する。私もいつの間にか挫折してしまったドイツ語日記を再開して、少しでもKiernanに近づけるようにしよう(ただし、ドイツ語を書く力、であって、思考力ではない)。

・内田樹:『ためらいの倫理学 (文庫版)』、角川書店、2003年。

とりあえず増補された四編とその前後のテクストを読んだ。読んでいるうちに、同じ著者の『映画は死んだ』をきちんと読みたくなったのだが、研究室の中をいくら探しても見つからない。一ヶ月ほど前に確かにある人から返してもらったのに、なぜだ。
2003年8月27日(水) No.135

うまい!
・内田樹:「増殖する物語」 所収:内田樹&松下正己、『映画は死んだ 世界のすべての眺めを夢見て』、いなほ書房、1999年、p.18-42.

明晰でかつうまい。内田さんの物語論の中で一番、文体のリズムと私の思考のリズムが同調した。『映画の構造分析』の中の物語論も「よくわかる」のだが、『死んだ』の方がフォルムへの意識が前景化しているせいか、読んだときの「脳内身体感覚」がより覚醒されるのだ。

書類作りの「コリ」をほぐすには、実に「ツボ」を押さえた書物である。クイクイ。
2003年8月28日(木) No.136

生きている
・松下正己:「前頭葉の鰐 映画の感情論」 所収:内田樹&松下正己、『映画は死んだ 世界のすべての眺めを夢見て』、いなほ書房、1999年、p.42-65.

・内田樹:「ジェンダー・ハイブリッド・モンスター」 所収:内田樹&松下正己、『映画は死んだ 世界のすべての眺めを夢見て』、いなほ書房、1999年、p.166-98.

・松下正己:「ユリシーズのまなざし」 所収:内田樹&松下正己、『映画は死んだ 世界のすべての眺めを夢見て』、いなほ書房、1999年、p.98-119.

今回長崎にいる間にやっておかねばならないこと、やっておきたいことがあれこれあって、落ち着いて仕事はできなかったのだが、その合間を縫って、内田・松下両氏の共著を読んだ。

にしても、なぜ、今頃この本を読んでいるかというと、この本を購入したのは二年以上前だというのに、その間私の手元にあった期間がトータルで一ヶ月くらいしかないからである。この本の出版社が「いなほ書房」という小規模なところだったせいか、わりと早い時期から入手困難になっていて、「持っているんなら貸して欲しい」という人が途切れなかったのだ。

ちなみに、最近新版が出たし、旧版なら古書店で求めることもできる。

『ため倫』でブレイクする前の内田さんの文体の「構造化された切れよ良さ」を味わうのも楽しいが、松下さんの「カチッとした」論の構成も気持ちいい。

ただ、内田さんの大好きなテーマである「エイリアン・フェミニズム」に関して言うと、この本にある「原点」を読んでしまった後では、その後の著作の中で反復される「お約束」を読むのが少々つらくなるかもしれない。反復だからつらいのではない。うまく言えないが、i-Podが初代から二代目にモデルチェンジしたときに角の取れたデザインを採用したのと同じように、反復の回数が増えるに連れ、文章が丸くなっているような気がするのだ。おそらくこれは構成にしろ、文体にしろ、ノイズが減ってきていることに由来する。それが、複数の欲望が映画テクストに複数の層を錯綜させながら作り出すという、内田映画論のテーゼと微妙に背馳しているという気がして落ち着かなくなる瞬間があるのである。
2003年8月29日(金) No.137


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