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☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2003年10月の日記


一週間なにをしてたの?
・Paola Albarella: Roman des Übergangs. Königshausen & Neumann 2003. S.70-108.

 ゼミ合宿と週末の間、ほとんど本を読む時間がなかったので、読めたのはこれだけ。作用美学によりかからずに、語りの問題を扱おうとすると、どうしても語り手を前景化させることになってしまう。Paolaの場合も例外ではない。しかし、語り手の実存的問題に重点を置くのではなく、引用の形態としてのパロディの作用メカニズムの要として、語り手を論じているのがなかなかおもしろい。
 ただ、「どうしてそこにこだわるの?」というのがよくわからない箇所もいくつかある。日本語で書かれた本だと、行間からそれを読みとることができるのだが、外国語だとそこらへんが壁になる。

<校正>言説環境としての日本論 ―小説『ライジング・サン』における排除/包摂の差異線をてがかりにして

 須田君との連名論文の初校が上がってきたので、印刷ミスや不適切な表現を直していった。須田君には申し訳ないが、私の文体独特のリズムの悪さがそのまま出ている。自分のスタイルがないと言った方が適切かもしれない。こういう点は私を見習わないで欲しいと切に願う。
 ただ、論文としてのまとまりは割とあると思うので、それほど恥じるものでもないかもしれない。私自身にとってはExkursだが須田君にとっては、これからの仕事の下地となる論文だから、まとまっていないよりはまとまっている方がいいにきまっている。あとは須田君が、この論文のまとまりを一旦解きほぐして、より広いコンテクストに置き直すことができるかどうかであろう。
2003年10月7日(火) No.156

Hallo Mr. シルバーストーン!
・Paola Albarella: Roman des Übergangs. Königshausen & Neumann 2003. S.108-132.

ここまで読んだところで、講義・演習の準備が忙しくなり、中断。本当は金曜までに読み終えるつもりだったのだが、目の前の仕事と関係がないとどうしても後回しになってしまう。

・ロジャー・シルバーストーン:『なぜメディア研究か 経験・テクスト・他者』 せりか書房 p10-38.

「メディア環境論」の講義のために二、三冊通読したのだが、どうもピンとこない。メディアと人間と社会との相互規定を一貫した視点から論じたものが意外に少ないのだ。前期のゼミで読んだマクルーハンの『メディア論』がいまだにリアリティを持っているのはそのせいだろう。というわけで、時間をかけただ割には、わざわざこの日記に書く気力すら湧いてこないものを二冊ほど読んだあとで、金曜の晩着陸寸前の飛行機の中で手に取ったのがこの本である。
 まだ読みかけたばかりなのだが、これまで手にしたメディア論の中で最も私のアンテナを刺激してくれるものになるのではないかという手応えを得た。

  われわれはメディアを[……]「経験の総体的なテクスチュア」を成すものとして研究していかなければならない

「メディア環境論」の一回目の講義に参加してくれた人は憶えているだろうが、これは私がメディアを分析するための三つの視点をまとめるために挙げた「テクスト性」という概念とはっきりと呼応している。講義ノートを作った時点(といっても木曜の晩だが・・・)では、シルバーストーンの本を開いてはおらず、講義の流れをなかなか作り出せず、試行錯誤の果てに自分のこれまでの研究や講義の流れからすると、「テクスト性」という視角からメディア現象にアプローチするより他ないと考えて、ノートに「媒介性・構築性・物語性→テクスト性」という図式を書き付けたのだが、それがたまたまシルバーストーンの定義に近いものであったのだ。これが偶然なのか必然なのかはよくわからないが、こういう一致は結構うれしいものだ。
2003年10月12日(日) No.157

グリコあるいはライダースナック
・水越伸:『デジタル・メディア社会』 岩波書店 1999年。

 「ソシオ・メディア論」、「限界芸術と遊び」、「メディア表現者」、「多層な公共圏」、「越境する小さな物語たち」、「メディア・ビオトープ」等々、キーワードはかっこいいのだが、一つ一つの論点に対するこだわりが希薄。個々の論点の繋がりもはっきりしない。『メディアとしての電話』(弘文堂)の時の方が読み応えがあったぞ。あの本の流れを作ったのは吉見俊哉だったのだろうか? ところどころに挿入された図も意味不明。図ってのは現実のパロディとしてのわかりやすさと機知がいるだろうに。
 ただし、本文で引用されたウエッブ・ページのURLやそのスクラップが収録された付録のCD-ROMは割と便利。講義に使う素材なんかも集められそうだ。
 ちょこちょこ参照しても決して全体を再読することはないだろう。
2003年10月14日(火) No.158

メディア、この自明なもの?
・岡満男(他)編:『メディア学の現在 〔改訂版〕』 世界思想社 1997年。

 いろいろなことが書かれていて、それなりに興味深い論点や情報もあるのだが、そもそも「媒介する」とは何か、という問いには答えてくれなかった。

 冒頭にある:

「現代社会を構成する諸要素においてメディアの占める位置の重要性にみあうだけの人びとの関心を呼び覚まし社会的位置づけをする」(「編者のことば」)

という文を読んだ時点で、すでに気になったのだが(何がって、その文それ自体のスタイル性と統一感の欠如が)、全体に統一感と仕上げのていねいさに欠けるのも問題である。「理論的かつ実証的な入門書を用意」するのなら、出来事を伝えるという行為の総体についての見通しが各章の担当者たちの間に共有されていなくてはならなかったのではないだろうか。入門書にとって最も大切なことは、細かい知識ではなく、「要するにメディアってこんなもので、それにはこんなアプローチがある」という問題の布置の明瞭な見取り図を与えることなのだから。
 巻末の用語集や参考文献表は入門者に親切だし、個々の論点の中には興味深いものも含まれるだけに、ちょっともったいない感じがする本である。
2003年10月15日(水) No.159

ここからどこまで行ったのか?
・早川善治郎・藤竹暁・中野収(他):『マス・コミュニケーション入門』 有斐閣 1979年。

 三年前、『環境科学へのアプローチ』(九大出版界)の「情報・メディア環境」の章を担当した際に、藤竹と中野の担当した四つの章だけを走り読みしたが、今回は全体を比較的ゆっくりと読んでいった。
 章や執筆者によって当たり外れはあるけれども、大学の教科書としては「使える」という印象を持った。出版されたのは20年以上前で、ケータイもインターネットも、それどころかポケベルすらなかった時代なのだが、メディアに対する基本的な構え自体は、多少修正を加えれば、今でも十分有効ではないだろうか。
 執筆者の中で一番波長が合うのは藤竹だ。新聞社のストで新聞を読めなくなった人たちの「禁断症状」についての話などは、前々から一度やってみようと思っていた「ケータイを取り上げられた人々の禁断症状」実験を先取りしているかのようだ。彼の書いた本を集めてみることにしよう。
2003年10月20日(月) No.160

隔靴掻痒
・ロジャー・シルバーストーン:『なぜメディア研究か 経験・テクスト・他者』 せりか書房 p.38-350。

 最後の四章は、「信頼」「記憶」「他者」ときて「新しいメディアの政治学に向けて」で終わる。ポストモダンな問題を経由しつつ、最後は政治学の問題に帰着するという論の立て方は、イギリスの左翼系知識人の典型である。イーグルトンなんかもそうだ。
 その締めくくり方がやや強引な感じはなきにしもあらずだが、最後の数章を読むことで、「記憶」や「他者」という私が今年度の前半に「自主講座」でやってきたことをメディア論として捉え直すことができた。
 だが、細かいニュアンスがどうも訳文からわかりにくくてじれったいので、やはり時間を見つけて原書を読んでみることにしよう。
 もう少し英文を読むスピードを付けないと・・・

・野村一夫:『社会学感覚 増補版』 文化書房博文社 1998年 P. 226-310.

 この本は最近新版が出たそうだが、読んだのは「増補版」のコミュニケーションに関する諸章。概論書だが「反省性」をキーワードにして一貫した視点から書かれているので、読んでいて安心感がある。無論、本の性格からして個々の論点への突っ込みが足りないが、それは挙げられた参考文献を自分で読んでくれ、といういうことなのだろう。
 HPから判断するに、「謎の社会学者」野村氏も、ついに本務校を見つけたようだ。今まで非常勤だけでやっていたのことの方が不思議である。
2003年10月22日(水) No.161

師匠の世代
・藤竹暁:『事件の社会学 ニュースはつくられる』 中央公論社 1975年。

 『マス・コミュニケーション入門』の中の藤竹の担当箇所が自分の思考の型に合っていると感じたので、その著作を集めて読み始めた。
 藤竹は1933(S8)年生まれ、私の学部時代の指導教官である塩原勉先生が1931年生まれだからほぼ同世代である。この世代はちょうど旧制と新制の間の世代であるが、私が大学に入った頃、彼らは50歳前後で研究者として最も脂ののった時期にさしかかっていた。塩原先生などはその典型だが、ここ四半世紀における日本の人文・社会科学の基本的な枠組みはこの世代の研究者の仕事によって作り上げられている。無論、それに続く世代にも優れた研究者はたくさんいるけれども、研究のスケールの大きさや射程の長さ、要するにパラダイムの広さと深さの点で、新旧間の世代ほどのインパクトは残していない気がする。
 藤竹は、学部の指導教官が清水幾太郎で、院では高橋徹に師事している。つまり旧制世代の薫陶を受けて育ったのである。
 この本が出版されたのは私が小学生の時である。したがって挙げられている事例は古いし、使用されている概念も少々古びてはいる。しかし、読んでいてこの古さはほとんど気にならない。方法を多少リファインすれば、ほとんどそのまま現代の事例の分析に使うことができる。つまりパラダイムとしての生命力を失ってはいないのである。
 私たちの世代は果たして息の長い「古典」を生み出すことができるだろうか?

・ノーム・チョムスキー:『メディア・コントロール』 集英社 2003年。

 恥ずかしながら、チョムスキーがベトナム反戦運動に深く関わっており、長年にわたってメディア批判を繰り広げてきたのを知ったのは、今年の一月、9.11についての彼の発言を収録した映画を観たときが初めてである。そのチョムスキーの講演の翻訳と辺見庸との対談を収録した新書。
 チョムスキーの基本的立場は実にシンプルである。福音書を引用しながら彼は:

偽善者とは、自分にあてはめようとしない基準を他人に押しつけようとする人のことだ

と定義する。アメリカの遂行する「対テロ戦争」に関する膨大な記事や解説を、この定義に基づいて読み解いていくこと。この本でチョムスキーがしているのはほとんどこれだけである。これだけであるが、そこから米国現代史の隠された貌が明瞭に浮かび上がってくる。政治、経済、軍事、そしてメディア。これらの複合体が作り上げた「リアリティ」の虚構性の輪郭を実にクリアーに描いているのである。
 にしても、AOLグループが、出版社の買収・乗っ取りを行ってまでチョムスキーの著作を焚書しようとしたとは驚きである。現代日本でもこのような形での反体制的知識人に対する言論封鎖がおこなわれる可能性はあるのだだろうか? 日本の反体制的知識人の言論はそこまでのインパクトがないから「大丈夫」ということなのだろうか?
 ちなみにチョムスキーは1928年生まれ。やはり「師匠の世代」である。
2003年10月28日(火) No.162


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