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☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2003年11月の日記


アイデア倒れにならないように
・藤竹暁:『現代マス・コミュニケーションの理論』 日本放送出版協会 1968年、p.1-173。

 ここのところ体調が今ひとつだったり、「行政的」仕事に追われたりして、あまり本を読んでいない。そんな中で藤竹の初期の仕事をフォローしている。
 最大の収穫は、藤竹がメディアを環境としてとらえていることの理論的背景が見えてきたことであり、そのルーツは清水幾太郎が第二次世界大戦前後に『思想』に発表した「二つの環境」(1939)と「環境に関する試論」(1947)にあることがわかったことである。
 一昨年から昨年にかけて、「言語環境論」ならぬ「環境=言語論序説」という論文を構想し、少しは書き始めてもみたのだが、忙しさにかまけていつしか放置したままになってしまっていた。この構想を清水-藤田の環境論と結びつけ、そこに「物質・情報代謝システムとしての人間」という輪郭を与えれば、<メイン・ストリーム>とやらに無批判に棹さすにわか専門家たちとは一線を画した、基礎科学としての環境学を構想できるという手応えを得た。
 問題は、他にもやりたい&やらねばならない研究が多々ある中で、この構想を優先的に論文化するのが難しいことにある。取りかかるとしても三年は先になるだろうな。誰か修論か何かの枠組としてこのアイデアを買ってくれないだろうか?
2003年11月3日(月) No.168

難しい分野だ
・藤竹暁:『現代マス・コミュニケーションの理論』 日本放送出版協会 1968年、p.173-389。

 ようやく読了。最近の研究者が書いたメディア論は軽いノリのものが多いのだが、この本は生硬と重厚を足して二で割ったような感じで、容易に読み進むことができなかった。あと、筆者の癖なのかもしれないが、繰り返しがやたらと多く、「もう少しコンパクトな本にできたのではないか」と何度も思ってしまった。かっこよく言えば、「螺旋状に議論が展開している」ということになるのだろう。『事件の社会学』もわりと繰り返しが多くて、後半になると時々既視感に襲われた。しかし、今回の方がその頻度は高かった。
 しかし、議論の骨格それ自体は実にしっかりしている。月曜日の日記でも書いたことだが、藤竹のメディア=環境論は、現代の「時代と寝る」のがウリの「擬似」科学とは、まったく異質のものだ。今後は、藤竹が依拠する、清水幾太郎や長谷川如是閑らの仕事へと遡り、また翻って、メイロウィッツの最近の仕事をそれらと関連付けるといった、探索に着手したい。時間さえあれば・・・
2003年11月6日(木) No.169

・BとAの論争を軸に,
・桜井哲夫:『TV魔法のメディア』 筑摩書房(文庫) 1994年。

 苦労して読了した藤竹の理論書に比べると、ほとんど氷の上を滑るような感じで読むことができた。桜井の著書を手にするのは、学生時代に『ことばを失った若者たち』や『思想としての60年代』をけっこう楽しんで読んで以来、ほんとうに久しぶりだ。
 桜井独特の話しかけるようなノリで書かれているのだが、議論の軸になっているのが、映像文化をめぐるベンヤミンとアドルノの間の対立であり、この対立が形を様々に変えながら今日まで続いている、という流れの中で書かれているので、読んでいて安心感がある。
 ただ、書かれた時期がインターネットが普及する直前、つまり、20世紀後半における最大のメディア革命を起こしたテレビに取って代わる可能性をもったメディアがどのようなものであるのかまだ明らかではなかった時期だったこともあって、テレビがその後のメディア変容の中でどのように位置づけられ、自らはどのように変わってゆくのか、その展望はあいまいなままに閉じられている。
 あえて言えば、最後から二番目の段落の中の一文の中で、「情報エリートにようる情報の中央管理」に対抗する方途として:

「本当に必要なのは、[……]フランスの自由ラジオのような、手軽で、誰でも参入できるようなミクロなメディアが普及することである」(203)

と書いているところに桜井の「勘の良さ」が現れている。
 今度は桜井のインターネット論やケータイ論を探して読んでみよう。
2003年11月8日(土) No.170

仮構はどこに?
・鹿島徹:「物語り論的歴史理解の可能性のために」 所収:『思想』 2003. 10. Nr. 954. p. 6-36.

・大塚良貴:「物語ること読むこと」 所収:『思想』 2003. 10. Nr. 954. p. 37-53.

・野家啓一:「物語り行為による世界制作」 所収:『思想』 2003. 10. Nr. 954. p. 54-72.

 『思想』の10月号の小特集「物語り論の拡張に向けて」に寄稿された三つの論文。分量的にも内容的にも鹿島の論文が中心となっている。まず第一に文献のフォローが幅広く丁寧である。ポイントの整理の仕方も分かりやすい。ただ虚構ないし仮構の問題については、結局のところ答えていない。
 哲学研究者が虚構について論じるとき、どうもリアリズム的な小説を念頭に置く傾向が強い。だから、「歴史叙述とフィクションの相違」(鹿島)といった問題の設定の仕方が単純になってしまう。虚構性の解体自体をテーマにした虚構、といったメタフィクションの次元が欠落しているのである。このことと語りえぬものへの言及の少なさはあきらかに関係がある。
 その意味では、<物語りのネットワークの外部にある異他的なるものの到来と遭遇>を問題にしている野家の議論の第三節が、私自身の問題設定へとつながる通路を開いているのではないかという予感を得た。(予感と書いたのは、シンプルに論理がつながっているので、具体的な出来事の記述の場面でどう実践に移されるのかよくわからなかったからだ)
 いずれにしろ、野家が『物語の哲学』に寄せられた批判にできる限り理論的に答えてゆこうとする姿勢が明確に現れている論文である。ただ、それでも「物語文」にこだわり続けるかぎりは「語りえぬもの」の領域のダイナミズムを野家の「物語のネットワーク」の論理に組み込んでいくのは容易ではないというのが正直な感想だ。
 にしても、最近の野家の著作について私の方でチェック漏れが二つもあったのは研究者として恥ずべきである。反省。
2003年11月11日(火) No.171

広がる問題圏、果てしなき文献たち
・北田暁大:「歴史の政治学」 所収:吉見俊哉(編): 『カルチュラル・スタディーズ』 講談社 2001年 p. 173-210.

そろそろ台湾でのシンポジウムの発表原稿をなんとかしなくてはならないのだが、講義と「お仕事」に時間を取られて思うように進まない状態が続いていた。これを打破するために、この夏に提出しておいた論文執筆時には未見だった先行研究のフォローを助走にしようと試みている。その中で一番印象的だったのが、この北田論文。1971年生まれでまだ若いのだが、実に目配りが効いていて、かつ、問題の設定の仕方がいい意味で論争的だ。
 問題設定という点では、昨日とりあげた三人の『思想』論文よりも、アクチュアルである。学問的にも、社会的にも。前半-中盤-後半のつながりがあまりよくないのが少し気になるが、これは「カルチュラル・スタディーズ」という制約の中で書こうとしたからだろう。とはいっても、個々の論述に力があるので、全体のつなぎの不自然さはあまり気にならない。
 そう言えば以前、鳴門の増田さんが誉めていたのもこの著者ではないかと思って検索をかけてみたらやはりそうであった。
上野千鶴子編『構築主義とは何か』(剄草書房)所収)[……]同書所収の北田暁大「〈構築されざるもの〉の権利をめぐって ―歴史的構築主義と実在論」に感服する。(01-04-07)

 北田は現在、東大の社会情報研究所の教員だそうだが、これからますますいい仕事をしていのではないかという予感がする。

・本橋哲也:『カルチュラル・スタディーズへの招待』 大修館 2002年。

 北田論文と同じ流れの中で読んだのだが、残念ながら見劣りがする。特に第十章「歴史」のところで妙に高橋哲哉を持ち上げて、高橋の議論(の立て方)に批判的な論者の仕事を無視しているのが問題である。となると当然のことながら加藤典洋に対する評価も一面的である。
 いやしくもカルスタの入門書を名乗っているだから、社会的に重要な論点には必ず相対立する複数の言説が紡ぎ出される、あるいはよりリアリスティックに言えば、複数の言説の抗争があるからこそ社会的な論点として浮上する、ということをきちんと読者に伝える努力は必要であろう。

・伊藤守・藤田真文(編):『テレビジョン・ポリフォニー』 世界思想社 1999年。

 テレビ番組の内容分析はどうも社会心理学的な計量に傾きがちなのが気になっていたのだが、この論文で著者たちは、テクスト分析や映画分析の技法を使っての番組分析を行っている。それも、アニメ、時代劇、スポーツ番組といった、従来あまりアカデミックな分析の俎上に載せられなかった番組を重点的に取り上げている。
 ただ、論文の出来は執筆者によってかなりばらつきがある。他の分野の分析技法の応用も少々雑な感じがするものもあった。編者の二人の論文は納得のいく出来だったが、若い執筆者の仕事の中にははエッセイの域を出ていないものもあった。もう少し時間をかけてやればもっといい論集になったと思うのだが・・・
2003年11月12日(水) No.172

衝動か逃避か、それが問題だ
・Paola Albarella: Roman des Übergangs. Königshausen & Neumann 2003. S.133-143.

 一ヶ月ほど日本語の本ばかり読んでいたところ、突然、ドイツ語のテクストが恋しくなり、10ページほど読んだ。本当なら一ヶ月前に読了していなければならなかった本だ。今月末〆の歴史記述に関する論文を仕上げたら、本格的にフリッシュ研究を再会しよう。
2003年11月14日(金) No.173

リアルの壁
・野家啓一:「過去の実在・再考」 所収:野家(他編):『新・哲学講義 別巻 哲学に何ができるか』 岩波書店 1999年 p.27-55.

・熊野純彦;「<過ぎ去ったもの>をめぐる思考のために ―追憶と傷痕とのあいだで」 上村忠男(他編) 『歴史を問う 2 歴史と時間』 岩波書店 2002年 p.181-205.

・野家啓一;「時は流れない、それは積み重なる」 上村忠男(他編) 『歴史を問う 2 歴史と時間』 岩波書店 2002年 p.207-237.

・北田暁大:「〈構築されざるもの〉の権利をめぐって ―歴史的構築主義と実在論」」 上野千鶴子(編):『構築主義とは何か』 勁草書房 2001年 p.255-273.

 物語と歴史記述に関して未見の文献をフォローした。一言で書けば、私が考えるようなことは、他の人も考えている、ということがよくわかった。しかも、私よりもクリアーに分節化した形で。自分の研究の方向性が間違っていないという証拠ではあるが、やはり虚しい。
 自分の研究にオリジナリティがあるとすれば、リアリズム批判とメタフィクション論を歴史記述の問題圏に位置づけたことくらいかもしれない。
 何はともあれ、あと一週間足らずでシンポジウムの発表原稿を論文化しなくてはならない。しかし、一体そんな時間があるのだろうか?
2003年11月28日(金) No.174


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