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☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2003年12月の日記


泥縄と言われても
・上村忠男:「歴史が書きかえられるとき」 上村(他編):『歴史を問う5 歴史が書きかえられるとき』 岩波書店 2001年 p.3-54。

・富山太佳夫:「歴史記述はどこまで文学か」 小森陽一(他編):『岩波講座 文学9 フィクションか歴史か』 岩波書店 2002年 p.17-40.

・鹿島徹:「記憶の共同性と文学」 小森陽一(他編):『岩波講座 文学9 フィクションか歴史か』 岩波書店 2002年 p.41-59

・下河辺美知子:「トラウマという場所」 森茂起(編):『トラウマと表象の主体』 新曜社 p.123-138.

・久松睦典:「物語とトラウマ」 森茂起(編):『トラウマと表象の主体』 新曜社 p.139-163

・浅野智彦:「物語と<かたりえないもの> 『年報 社会科学基礎論研究』 第2号 p.98-115.

・菊池裕生・大谷栄一:「社会科学におけるナラティヴ・アプローチの可能性 ―構築される「私」と「私たち」の分析のために」 『年報 社会科学基礎論研究』 第2号 p.167-183.

 台湾シンポの発表原稿の論文化のための下準備として読んだ文献たち。ベストは鹿島論文。この論文は、今回の原稿と次に取りかかる予定のStiller論をつなぐ理路をも提示してくれた。鹿島がこれまで発表してきたもの、そして今後書くであろうものをきちんとフォローすることを決意。
2003年12月4日(木) No.175

今月は仕事できんかったなあ
今月の研究。書くのも恥ずかしい少なさだが、これが私の師走の現実。

・Paola Albarella: Roman des Übergangs. Königshausen & Neumann 2003. S.143-182.

 ようやく読了。虚構テクストを虚構テクスト相互の引用のネットワークという視点から捉えるというやりかたは、テクスト研究の領野を拡大しかつ方法的なものにしたとは思う。だが、それだったらどうして虚構の内部にネットワークを限定する必要があるのか、よくわからない。
 だが、巻末に付けられたフリッシュと筆者との対談はなかなか示唆に富んでいた。話が噛み合っていない感じはつきまとうのだが、そのズレの部分から晩年のフリッシュの美学的立場が見えてくる。

・Jürgen H. Petersen: Max Frisch: Stiller Diesterweg 1994. S.5-31.

 再読。シュティラー論のために一年半ぶりに読み返しているところ。自分のアンテナの張り方に変化はないように感じていても、実際には少しづつ力点の置き場が変わっていることを、蛍光ペンを引く場所のズレによって確認する。

・ティリー・イーグルトン:『文学とは何か 現代批評理論への招待』 岩波書店 1985年。

 再・・・・・読。この本を読み返すのは何度目だろう。読む度に新しい発見がある。上のペーターゼンのところで書いたような前向きの解釈も出来るだろうが、単に私に読みの注意深さが欠けているだけかもしれない。
 様々な批評理論と方法が内包している可能性と限界を明快に取り出す手腕は見事である。ただ、その限界の部分を自らの立場である「政治批評」に結びつけようとするところで、ところどころ曖昧になったり、強引になったりするのが問題点だろう。しかし、一体どういう立場から書いているのか全く分からない(=似非リアリズム的)概説書よりは、この方がはるかにフェアだと思う。
 曖昧に思われる箇処は、英語のオリジナルと独訳を比較しながら読んでみることにしよう。訳者が大橋洋一なので、訳が悪いから文意が通らないということはないだろうとは思うが念のため。
2003年12月27日(土) No.176


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