lesendenkenschreiben

☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2004年1月の日記


再開
Therese Poser: Max Frisch: Stiller Oldenbourg 1988. S.7-44.

 あまり研究に専念できない状況が続いていたが、ようやく復帰。手始めに手に取ったのは、Oldenbourgの概説書シリーズの中のシュティラー論。
 何で今さら概説書を読むのかというと、自分の視点からのみテクストに接しているとどうしても死角や盲点が出てきてしまうからである。外国語の文献の場合、特にその傾向が強い。だから概説書と言えどもバカにせず、手に取ってみることにしている。
 Stiller論に関して言うと、「なぜシュティラーはホラを吹くのか」という問いに正面から答えている研究はあるようでない。この本でもこの点が深く追求されているとは言えないが、割と満遍なく問題を拾い上げている点は評価できる。

 ことしの1-3月は『シュティラー』論とデュレンマットの翻訳を研究の中心に据える予定。その後は夏まで「文化構造論」と「複合文化環境論特講」の講義ノートを充実させ、研究にまで深めることができそうな所を書き込んでゆくことになろう。夏休み以降は、店晒しになっている「フリッシュとレヴィ=ストロース」を論文化することが中心になる予定。

 ともあれ、今年はいい仕事をしたい。それだけである。
2004年1月12日(月) No.177

僕は僕じゃない
・Therese Poser: Max Frisch: Stiller Oldenbourg 1988. S.44-67.

・Martin Balle: Sich selbst schreiben - Literatur als Psychoanalyse. iudicium 1994. S.7-102.

 先週の中頃に一度、書き込んだつもりだったのだが、なぜか消えていた。それも合わせて最近の仕事についてメモしておく。

 Poserの本は、突っ込みは足りないが、それでも、語りの問題などは学術誌に載った論文よりも、丁寧に押さえてある。読んで損はない概説書だ。

 Balleの本は、語られた時間の語りの時間両方のレベルにおいて精神分析的視覚からのアプローチを行っている。序論では、テクストと読者との間の精神分析的関係も視野に入れると書いてあったが、実際にはそこまで行っていない。
 語られた時間内部での出来事を「ナルシス的」をキーワードに分析したところは、正直言って平板だった。登場人物の内面と行動の関係を精神分析の概念で説明するというスタンスがあまりに古典的すぎるからだろう。
 それに対して、物語り行為それ自体を「記憶・反復・徹底操作」の視点から分析している箇所は、非常に参考になった。語るという行為がなぜ必要なのか、それは語りの主体と語りかけられる主体に何をもたらすのか、といった問題圏で議論が展開されている。
 ただ、他の分野の理論や方法をある分野の資料に応用するというスタイルの研究は、そもそも書き手が資料をどのように解釈しているのかによって、結果が大きく変わってくる。この本も例外ではない。
 要するに、「決定的経験」から「変容」までのプロセスがちょっとシンプルに捉えられすぎているのがちょっと気になるのだ。
 Stillerで問題になっているのは、変容を妨げる内的、外的な障害の根深さと、それでもなお「決定的経験」に忠実であろうとすることととの間の闘争ではないか、と私は読んでいる。
2004年1月19日(月) No.178

読みながら考える→書きながら考える
・Martin Balle: Sich selbst schreiben - Literatur als Psychoanalyse. iudicium 1994. S.102-124.

・Jürgen H. Petersen: Max Frisch: Stiller Diesterweg 1994. S.33-54.

 卒論シーズンにまとまった仕事をするのは無理だ。しかし、少しでも研究時間を確保するようにしないと、心の健康に良くない。

 Petersenを読み終わったら、そろそろschreibend denkenにモードを切り替えよう。
2004年1月23日(金) No.179

サプリメントのようなものか
・Jürgen H. Petersen: Max Frisch: Stiller Diesterweg 1994. S.54-74.

週末は、学童保育所のバザーに出かけたのと響一郎の自転車の練習をした以外は、ひたすら風邪を治すために静養する。しかし、研究に結びつくことを何もしないとそれはそれで心の健康に良くないので、ちょこちょことPetersenのStiller論を読む。
 大した分量を読んだわけではないが、Bildnis(偶像)-Bild(画像)-Media(媒介/媒質)という問題の布置の中にStillerを置いてみると面白いのではないか、というアイデアが浮かんできた。テクストの中に「複製技術」についての言及があるにもかかわらず、『シュティラー』を正面からメディア論的に扱った研究は未だ出ていない。考えてみれば不思議なことだ。「手記」というエクリチュールの形それ自体が一つのメディアなのだし、フリッシュのナラトロジーと「媒介/媒質」論の間には親和性や整合性があっても別に不思議ではないはずだ。
 とはいうものの一体いつ書くんだ、という自己突っ込みから逃れられないのはいつものことではある。講義では扱いにくいし、どうしたものか。学会発表でも申し込むべきだろうか。ちょっと考えてみよう。
2004年1月26日(月) No.180


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