lesendenkenschreiben

☆研究日誌☆

こんなものは本来公開すべきではないのかもしれない。
しかし、不勉強の実態をあえて世間に晒すことで自らを「他律」すれば、
少しは研究も進展するのではないか、と考えた。



2004年5月の日記


シュティラー、落ち穂拾いをす
 ここのところ何もしてなかったかと言うとそうでもない。
 Stiller論の締め切りが迫ってきて、ポチポチと仕事を進めてきた。論文の輪郭がおおよそ明らかになってきたという段階だ。ただ、当然といえば当然のことながら、「連休中は執筆に専念」といった夢のような生活からほど遠い状況にあるので、間に合うかどうかは微妙なところだ。週末に体調を崩さないようにするのがポイントだろう。

 今回の論文は「嘘つき」についてだが、その準備をしているうちに、Stillerに関してもう一本論文を書きたくなってきた。私の場合、これは逃避の兆候だ。目の前の論文も書けるかどうかわからないのに、はや次の論文の構想を練っているのだから。
 しかし、逃避と紙一重のところで、いいアイデアが湧いてくることもある。論文を書くということは、仕込んだネタの9割を捨てるということと同じことだが、その捨てられたネタをリサイクルして、大切に育てるとそれが大きく育つという場合もあるのだ。
 というわけでここ二三日考えているのは

『写真週刊誌のリアル あるいは『シュティラー』のメディア性をめぐって』

という論題。今書いている「嘘つき」論文を仕上げた勢いで取りかかれば、夏休み前に書けるかもしれない。

 単なる思いつきではあるが、メディア=媒介性を軸にして、大学の講義で話していることと、フリッシュ研究とをうまくつなげることができるかもしれないと思うのだ。
2004年5月6日(木) No.193

endlich
ようやく『シュティラー』論のための仕込みができた。しかし、締切まであと二日しかない。仕込みが終わった安心感からか(って安心している方が変なのだが)、思考が拡散してしまっている。どうしたものやら。
2004年5月8日(土) No.194

こりゃあ手直しが大変だ
 週末から今日にかけて、ちょこちょこ時間を見つけては、先週提出した論文を読み直してみた。

 編集委員の方々に申し訳ない気持ちになった。

 基本的構想は悪くないと思うのだが、時間に追われて書いたために、記述の循環や重複があちこちに見られる。打ち間違いも多い。
 一昨年の秋に10ページ程度の口頭発表原稿としてまとめたものを主として前半に使用し、後半は新たに書き足した箇所がほとんどなのだが、当然といえば当然のことながら、前後のつなぎがあまりよくない。いったん完結したテクストを再度開いて、書き足すというのは、思っていたよりも大変な仕事だった。

 近いうちに編集委員の方々からの厳しいコメントが来るだろうから、それを受けて、大幅に改稿することになるだろう。
2004年5月18日(火) No.195

これは当たりだ
ジョン・ヴァン=マーネン:『フィールドワークの物語 エスノグラフィーの文章作法』 森川渉(訳) 現代書館 1999年←1988年、p1-162.

 その昔、クヴェレという研究会で、「読みのエスノグラフィーという立場」と題した研究発表を行ったことがある。その発表は割とリアクションがあり、なるべく早く論文化した方がいいというおすすめの言葉をいただいたりもしたのだが、文献のフォローをもう少しきちんとしたものにしようと思って、勢いで論文へとまとめなかったのが運の尽き。その発表原稿はもう10年以上も眠ったままになっている。

 アイデア自体は悪くなかったと今でも思っているので、もったいないことをしたと思わないでもないが、その後、現在の職場で講義をするために文化と表象に関する文献を割とていねいにフォローし始めてから四年近くが経った地点から振り返ると、当時のままではあまりにも目配りの足りない論文になってしまっていたことがはっきりわかる。
 当時の私の認識は、エスノグラフィーのような人類学・社会学における経験の記述をめぐる理論と技法は、テクスト研究における物語論や読書行為論と類縁性を持っているにもかかわらず、二つの領域の間には学問的対話があまりおこなわれていない、というものであった。
 たぶん日本ではそうだったのだろう。しかし、当時既にこの本の著者ヴァン=マーネンはこうした問題をはっきりと指摘していたのだし、クリフォードやギアーツの著作も続々と翻訳されつつあったわけで、あのまま論文を書いていたら結構恥ずかしいことになっていただろうことは容易に推測がつく。

 できることならば、現在の視点から、「読みのエスノグラフィーという立場」を書き上げてみたいのだが、いったいいつになることやら。
2004年5月24日(月) No.196

豆腐屋が餅を売る
ジョン・ヴァン=マーネン:『フィールドワークの物語 エスノグラフィーの文章作法』 森川渉(訳) 現代書館 1999年←1988年、p163-284.

 エスノグラフィーの記述の形式を、「写実的物語」「告白的物語」「印象派的物語」に分け、自分の書いたテクストをその具体例として取り上げて、「自己ツッコミ」を入れるというやりかたは、方法としては面白い。リアリズム的な記述の問題点についてリアリズム的に記述する、といったグロテスクな逆説からは遠い地点にヴァン=マーネンはいる。

 しかしそれでも、社会科学者であるヴァン=マーネンは、印象派的物語まで進んで、伝統的なエスノグラフィーの「語り」を相対化した後、リアリズムを放棄しないことを宣言せざるを得ない。
 つまり、印象派以降のテクスト実践の領域に、この好奇心に富んでいる(はずの)エスノグラファーは足を踏み入れようとしないのだ。なぜだろう? 表現主義すら既にエスノグラフィーには会わないものにされているのはなにゆえにだろう?
 100年前に確立された、表象の技法でもって、現代の社会現象を記述するということに対する自己ツッコミはあまりにも破壊的すぎるのだろか? だからといって最後の章でリアリズムを部分肯定しに戻るという身ぶりは、あまりにもリアリズム的だ。

 というわけで、最後の章である第六章に至って、この本のテンションはがくんと下がる。そこまでは章を追うごとに盛り上がってきただけに、そのコントラストは「印象」的過ぎる。
 しかしまあ、そこまで求めるのは、ないものねだりだろう。「オープンエンド」などと言わず、完全に開かれたテクストとしてエスノグラフィーを織り上げたら、それはもう一つの症例以外のなにものでもないからだ。
 それはそうなのだが、それでも人間的な現実を言葉へともたらそうとすれば、書き手の権能を握りしめ続けることはできないということもまた確かである。
 その先にあるのは、「科学とは何か?」という究極の問いかけだろう。書き手が自らが書いている当のテクスト上の言説を統御できなくなれば、それはもうヴァン=マーネンの考える人間の科学としてのエスノグラフィーではないのだ。
2004年5月28日(金) No.197


[Admin] [TOP] [LIST]
shiromuku(pl1)DIARY version 1.33