「ワタシ」的日常(2003年3月)


03/03/30(日):別れの季節に


 東谷君と志氣君は勤務先の研修に出かけ、宮崎さんは京都へと旅だった。
 別れの季節である。
 大学という場からの卒業という意味での別れだけではなく、プライベートでの別れもあったかもしれない。
 その一つ一つは確かに一度限りの出来事なのだが、人が個人史の中で、そしておそろらくは世代をこえて繰り返してきたことだし、繰り返すより他ないことだ。
 私にとっての「卒業」の時代に何度となく反芻したのは
I'm waiting for you like another lovers do.
 というサザンの「朝方ムーンライト」の一節である(英語としては変だが・・・)。
 個人の生の一回性が集合的なものの反復性と出会う瞬間である。
『 天声人語』に目を通していたら、ほとんど四半世紀ぶりにかつて感涙にむせびながら読んだ言葉に再会した。
進むものは別れなければならない。
ワーズワースのこの言葉を、この春いろんな「別れ」を経験した者たちに贈ろう。(ちょっと気恥ずかしくもあるが・・・)


03/03/27(木):OL研究序説


 遅めの朝食兼昼食ととりながら「あかねや」のマスターとOLの行動パターンについて話す。マスターは店を開く前にハイテク技術者として会社勤めを経験しているので、このフィールドに関しては、私などよりたくさんの事例と知見を持っているのだ。
 別にOLとお近づきになりたいというのではない。新四年生たちの就職活動のサポートに役立てようというのでもない。とある「経験」についてマスターと話しているうちに話がOL論になってしまったというだけのことだ。
 驚いたのは、私の挙げた個別事例とマスターの指摘する「OLの行動パターンの傾向」とがほとんど完全に一致することである。
 Du sollst dir kein Bildnis machen. 「汝偶像を作るなかれ」をモットーにしていたフリッシュを研究している者としては、ある社会的カテゴリーに入る人たちの意識と行動を安易に類型化することは慎まねばならない。それは分かっている。
 しかし、それにしても、一致するのだ。個人史に由来するパーソナリティよりも、広い意味での制度の方が、考え方や行動のパターンをより強く、しかも、個々の成員の意思とば別の次元で規定するとでも言おうか。
A という職場にいたときは、つっけんどんでぶっきらぼうだった人が、Bという職場に移ったとたん、にこやかで親切なひとになる、といった事例はよくある。そんなとき「社会的関係性の交点としての人間」という考えがリアリティをもって体感できる。関係性の外部にある本当の自分なんていないんじゃないかという「不安心」とともに。
 顧みて、今の自分は一体どんな関係性の交点としてあるのだろう?、と思うとクラクラしてきたのでこの項は終わり。


03/03/27(木):「お仕事」にも程が・・・


 編入学生の単位の読替&個々の学生のための時間割作成の作業に忙殺される。自分が担当した学生の分を片づけた後、他の三人の先生がやった読替の妥当性を点検する仕事まである。その結果をさらに金曜の教務委員会で検討するのである。
 確かに、読替がいい加減で編入学生が二年間で卒業できないといった事態になるのは避けるべきだろうが、課されている仕事を全て誠実にこなしていると研究のための時間など皆無になってしまう。
 3日続けて研究ができないと、ストレスが溜まって情緒不安定になってしまうという職業病をもっている私としてはとてもつらい。


03/03/26(水):ありがとう。また会う日まで。


 卒業生のみなさん。花束ありがとう。そして何より、スリリングな卒論ありがとう。先生はうれしいよ。よっぱらて指が動かないので今日はここまで。ゼミの卒論集取りに来てね。


03/03/24(月):これは手強い


 週末はずっと編入学生の単位の読替作業をやっていた。というか今もやっている。これはきちんとやろうとすればするほど大変な作業だ。
 基準を厳しくすれば、二年間で卒業できなくなってしまうし、かといって甘くすると、編入先の大学で学ぶ意味がなくなってしまう。
 しかも、私の勤務先の場合、昨年度から学部で新カリキュラムが施行され、来年度から全学教育(旧教養)の時間割が全面的に新しくなることもあって、作業はよけい複雑にになる。勤務先のシラバスとそれぞれの編入生の出身校のシラバスを読み較べながら、仮に読み替え作業をしてみて、残り単位を二年間で取れるかどうか(新カリと旧カリとの読替や、全学教育の時間割変更までにらみながら)シュミレーションし、その結果を見て、読替のさじ加減を変えるというのを繰り返さなくてはならないのである。最終的には編入生それぞれの時間割の「モデルプラン」を作り、個人面談でそれについて説明をしてようやく作業完了である。
 慣れるとだいぶ楽になるのだが、最初の一人の「モデルプラン」を作るまでに6時間はかかってしまった。
 しかし、やってみてよかったと思えることがある。それは、自分の勤務先のカリキュラムの仕組みがよくわかってきたし、他の大学や短大がどのような教育サービスを提供しているのかおおよそ見えてきたことである。読替作業は確かに重労働だが、全ての教職員が一度はやってみるべきであろう。


 見えてきたことの中から一つだけ書いておこう。
もっと専門性を!



03/03/24(月):われ主戦論者、されど


 私はどちらかというと主戦論者である。
 もちろん言論のレベルにおいて。
 今現在米英(豪)によって行われているイラクに対するなぶり殺し作戦に対しては、もちろん反対である。
 その理由は色々あっていちいち書ききれない。気分的なアメリカ嫌いというのを基調音にしつつ、床屋談義レベルの判官びいき的「アメリカ卑怯論」から、「エスノセントリズム・相対主義・反省性」をキーワードとする文化・文明論まで、私という人間が発しうるさまざまな言説の全てがこの度の殺戮に反対している。
 
 20世紀は人類史の中でも最も災厄に満ちた時代だったが、その結果として一つの約束が結ばれた。
 それは、殴りあいのけんかはやめて口げんかをしましょうという国際関係の基本的ルールである。むろんこの場合でも、たとえばいきなり殴られたときに正当防衛として手を出すのは許される、といった形で殴りあいが認められる場合はある。しかし、基本的には、まず口げんかをし、お互いの言い分を出し尽くし、落としどころを探る、あるいは、みんなで投票して、その結果にはたとえ不満でも従う、といった「学級会方式」が、国際社会においても「グローバルスタンダード」なのである。
 私が「主戦論者」なのは、こうした議論のレベルにおいてである。そして、このレベルにおいてのみである。(たとえば、アカデミックなレベルでは、<民主主義>は学問の敵だと思う)。
 複数の利害が対立する場において落としどころを探るとすれば、だれかが「主戦論者」にならなくてはならない。落としどころを0とすれば、相手が-10の主張をしてくると見越して、こちらは12くらいの主張をするのが「主戦論者」である。とはつまり「主戦論者」がねらっているのは最初から0のあたりであって、決して12ではない。
 そのためには、「まあまあ、両方ともそんな原理主義的なことを言わないで、ここら辺で手を打ったらどないでしょ」と落としどころを示唆してくれる、「仲介者ないしなだめ役」が必要である。そして、この「仲介者」の腕次第で、落としどころが、-0.5になったり2.1になったりするわけだから(そして、そうした微細な数値の違いのためにしのぎを削っているわけだから)、実はこの「仲介者」こそが論戦の「主役」なのである。とはつまり、いかに「仲介者」との間に意思疎通を確保しているかが大切なのだ。(根回しをしなくても、その場での直観的な役柄の割り振りがうまくゆけば会議は必ず成功する)。

 それはさておき、「主戦論者」が自分の意見が会議で通らなかった、あるいは今回のように、通りそうになかったからといって、議論の場から退場して、圧倒的軍事力をもっていきなり戦線布告というのは(文字通り)「論外」である。無論、議論の場から降りるというはありである。しかし、その場合は、その後は他国に対して手を出さない、つまり、内向きに「傷ついた自我を守る」のが仁義というものである。そうでないと、国際連盟を脱退した後に日本がやったことと、今、米英がやっていることは関係論的にはほとんど変わりないことになってしまう。あの国は20世紀の災厄から何も学ばなかったのだろうか? 自分だってその災厄に大きく加担しているというのに。


03/03/21(金):戻る気になりゃいつでもおいでよ


 昨日は、遥山君の断髪式&ゼミの追いコンだった。
 もめそうな案件が重なって、教授会が予想以上に長引いたりして、開始が遅れてしまったが、四月から曹洞宗の僧籍を取得するための修行生活に入る遥山君の断髪式の言い出しっぺとして、なんとか最初に鋏を入れることができた。その後、四年生、三年生の順で少しづつ、ハート形に刈り込んでいった。修行生活を見越して最近は茶髪染め(?)していなかったらしく、根本のあたりは黒かったので、形がくっきり見えてよかった。江湖さんたちはメイクまで施していた。もともと細面で彫りの深い遥山君(ゼミの集合写真の後列右から三番目。あれ、そういえばあの頃は髪の毛黒かったんだね)だけに、なかなか妖艶な風貌に仕上がっていく。途中で池田先生と生野先生も乱入して華(?)を添えてくれた。
 続いて大学院の教授会があり、私が姿を消している間に、「儀式」は終了しており、遥山君は帽子をかぶって、予約しておいた生協の床屋へと向かっていった。
 きれいな坊主頭になって戻ってきた遥山君の写真を撮ってから、「にんにくや」に移動し、追いコン開始。(移動の途中で、長崎市内に就職する志氣君にはゼミの「永久技術顧問」になってくれるよう依頼。快諾してもらって一安心である。このホームページも基本的構造を作ってくれたのは志氣君だ。私はHTMLファイルを作ってアップしているだけだ。なるべく長く今の会社で働いてくれることを祈るのみである)。断髪式には来ることができなかったゼミ生たちもやってきた。一番印象に残っているのは宮崎さんの京都での「和風下宿」の話である。けっこう「お嬢」な宮崎さんがどんな「京都町屋間借りライフを」送るのかいまから楽しみである。私の方は薬のせいもあって、すぐに酔っぱらって、「志氣君と東谷君が独立して共同経営する健康食品会社と遥山君が創唱する新教団とを合体させて集金マシンを作り、私が教義を考えて顧問料をいただき、ジャーナリストになった宮崎さんがその教団の金満ぶりを暴いて、本を書き、私は情報提供料をいただく」といういつもの「夢」を変奏しつつ繰り返ししゃべってしまった。反省。たっぷり飲み食いした後、「ゼミ卒業証書=色紙」を授与して、一次会終了。
 「花粉症&風邪」で鼻と喉が悲惨な状態だったのだが、一次会だけで帰りたくなかったので、みんなと一緒に二次会会場のカラオケボックスへ移動。この時点でほとんど声が出なくなっていたので、みんなが歌うのを聞いているだけのつもりだったのだが、だんだんうずうずしてきて『勝手にしやがれ』を歌ってしまった。高い声が全く出ないのでキーを下げてもらったがよけい悲惨なことに・・・さらに、ここ数年J-POPをフォローしていないというラップ娘平松さん(卒研着手できてよかった!)と『いい日旅立ち』をデュエット(?)する。こっちはなんとか大きく破綻せずに歌いきることができた。
 私の対角線上、つまり一番遠い席に東谷君が座っていたが、好きな歌の後にはなにげなく、しかし必ず一言コメントしていた。うまく言えないのだが、いかにも「らしい」コメントだった。忘年会の二次会の時には選曲に結構悩んでいた東谷君だったが、今回は「開き直って(?)」好みを全開にしていたようだ。
 私は一時過ぎに帰ったが、学生たちは一体何時まで歌っていたのだろう?
 なにはともあれ断髪式と追いコンの幹事を引き受けて、いろいろと楽しい企画を考えてくれた三年生たちに感謝!である。ごくろうさまでした。
 卒業生たちにはまだ来週の卒業式で会えるとはいえ、ゼミの行事としては追いコンが最後である。ひとりひとりに十分な指導ができたのかどうかよく分からないが、みんないい卒論を書いてくれたので、私としては満足のいく二年間であった。卒業しても時々はゼミのことを思い出して、このホームページを覗いてちょうだいね。
遥山君は修行から戻ってきたら、またじっくりと鍛えてあげよう。(欲を言えば、青木保のように修行生活のフィールドワークをやってほしいが、やっぱ、無理かね?)


03/03/18(火):最長不倒記録大更新


 20分ほど前にやっとのことで教務委員会が終わった。9:30から始めて、途中に合計で一時間+αばかり休憩があったとはいえ、ほとんどぶっ通しである。しかもそのうち5時間くらいは、ひたすら足し算である。こういう単純作業を「花粉症+風邪」の状態でやるというのは拷問に近い。「2+2+2+1=9」などという計算を平気でやってしまう。しかもそれで学生の人生が変わってしまうかもしれない数値なのである。計算大会の後でやった会議も、理念と制度が必然的に生み出した構造的アポリアをどうやって糊塗するか(いや、緩和するか)というendlos und anstrengendなものだったし・・・こんなに疲れたのは本当に久しぶりだ。
 前回、計算大会をやったときは奥先生には勝っていたのだが、今回は私の方が明らかに計算ミスが多かった。
 感心するのは理系選出のお二方は、ほとんど全ての計算を暗算でやっているのに、ミスが圧倒的に少ないことである。小学校低学年の頃、発明王エジソンにあこがれていた私が、自分は自然科学者には向かないと最初に感じたのは、私は計算が遅くて、不正確である(暗算などもってのほかである)ことを認めざるをえなかった瞬間であった。「9桁÷8桁」といった問題が延々と続くドリルをきちんとやり終えた生徒から、遊びに出てもいいという条件で、ドリルを解かされ、夕暮れ近づく晩秋の教室に最後の二人になるまで残らざるをえなかたったときの風景と心象は今でもはっきりとおぼえている。
 このエピソードもまた「解釈学的変形」を受けているだろう。しかし、あのときの視覚風景と内的光景との「布置」を、過去形ではなく現在形として「今ここ」で私は経験している。


03/03/17(月):花粉症頭で考えた


 花粉症の症状が出始めたのは、忘れもしない2000年の春、つまり留学から戻ってきて最初の春だった。三月になって突然、目の周囲がかゆくなったり、鼻水が出てきたりしたので、スイスにいる間に(古小麦で作った)パン(あるいは素性の知れないインディカ米)の食べ過ぎで体質が変わってしまったのかと思ったが、その後も毎年同じような症状に見舞われるところをみるとやはりこれは花粉症以外の何ものでもない。
 (あっちでも似たような症状というのはあって、Heuschnupfen(干し草の鼻風邪)というのだと教えてもらったりしたが、正直言って、自分には関係ないと思っていた。)
 幸い今年は、割と症状が軽かったのだが、二三日前から風邪を併発してしまって、耳鼻咽喉科系は耳を除いて全滅である。風邪それ自体も別にひどくはないのだが、いっぺんに来るとこたえる。特に声がでないのがつらい。本当なら明日は年休でも取って静養したいところだが、朝から晩まで教務関係の仕事が詰まっている。しかもまたもや足し算の嵐である。こんなコンディションでだいじょうぶだろうか。
 3月16日の日記に、「文系最左派の私の立場」と書いたら、いつもの方から「それは何らかの党派と関係があるのでしょうか」という短いメールをいただいた。
 で、遅ればせながら『広辞苑』で確認してみると、左派=「左翼。急進的な主張を持つ党派」とある。こんな風に定義されると、「急進」という言葉の意味がわからなくなってきたので、調べると、急進=「急に理想を実現しようとすること」と定義されている。定義からすると「理想」の内容は問わないらしい。
 こうした定義からすると、私はどう見ても「左翼」ではない。別に急いで理想を実現しようとは思っていなし、党派よりはネットワークの方がはるかに好きだ。理想は持っているけれど、それはテロスからはほど遠い、直観的な好みと消去法からなるあいまいな「代案」のようなものだ。
 だから、自分を「文系最左派」と定義するのは言葉の濫用なのかもしれない。
 しかし、「文系最左派」という言葉を使ったとき、私はそれに明確な意味を与えている。それは:
私が同じ手続きで同じ対象を研究したとき、一度目と二度目で結果が違うのは、否定的な事態ではなく、多くの場合望ましいことである。あなたが私と同じ手続きで同じ対象を研究したとき、私の結果とあなたの結果が違うのも、否定的な事態ではなく、多くの場合望ましいことである。
という学問的スタンスである。
 以下、この定義に対する注釈を書きかけたのだが、自明のことを繰り返すだけになりそうなので止めることにする。

 簡単に要約すれば:
無論、自然科学にも「観測者問題」というのはある。だが文系の学問においては、「観測者問題」が結果に大きく影響を及ぼすだけでなく、それが多様で大規模であった方がいい場合もある。広義のテクスト読解というのはそういうものだし、優れたテクストであればあるほど、そうした結果を生み出すのだ。しかし、それは科学であることと両立するのだ。そうでなければ「人文科学」など語義矛盾でしかない。

ということである。ああ、やっぱり自明すぎる。
 で、なんで今そういうことにこだわっているかというと、高橋哲哉や岡真理の批判を受けて、彼らだったらここをどう読むだろうかと自問しながら、野家啓一の『物語の哲学』を読んでいくうちに、以前読んだときには気づかなかった読み筋が色々出てきて、この本に対する自分の評価がずいぶん変わってきたからである。最初は、自分の構想する物語論との共通点を追う形でこの本を読んだ。しかし、もっと「意地悪」な視点から読むと、野家の議論では(あるいは「歴史の物語論」では)、「歴史の形而上学」からの解放の契機が前景化しているが、それは、同時に歴史記述の政治と倫理の問題を背景に押しやることによって可能になっている、ということが次第に見えてきた。野家の書き方が試論的で、十分な目配りや精密な論証が出来ていないという点はあるにしても、基本的には、「歴史哲学の死以降の歴史哲学」が直面せざるをえないさまざまな問題が多義的に書き込まれていると読むべきであろう。
 いずれにしろ、背景に押しやられている問題を前景化すれば問題が解決するというわけではない。野家の言う「テロスの不在」や「ヒストリー・イズ・ストーリー」といった認識なしに、歴史と物語について考えることなどもはやできないからである。
 ではどのようにすればいいのか? 私にもまだよくわからない。ただ、野家と高橋を「対決」させるのではなく、「対話」させる方向で考えていかないと出口は見いだせないのではないだろうか。しばらく腰を据えて取り組むことにしよう。
 

03/03/16(日):So lebe ich hin


 それ以外のウイークデーは、自宅または名大でひたすらlesen and denken. ab und zu schreiben.週末は子供たちの風邪の看病などもあって、学問的には何もせず。子供たちと一緒に「ウルトラセブン」のDVDを観て、アンヌ隊員がなぜ人気があったのかを確認する。今観ると確かにそうだ。文句なしに納得である。私だって諸星ダンになりたい。あのころの私は決してそういう眼差しで「セブン」を観ていなかった。読み筋というのはやはり複数あるのだ。いろんな欲望がいろんな形で書き込まれているのだから。とりわけ映画とかテレビ番組とかは。


03/03/16(日):バックボーンを持つこと


 現象学的社会学の専門家、西原先生と面談&会食。
 西原先生のことは、書物を通じてはかなり前から知っていたのだが、実際にお目にかかったのは今回が初めてである。なんと言うのか、「いもほり」と揶揄される「いしばし」駅を最寄りの駅として学生生活を送った者には決して身につけることのできないソフトで洗練された雰囲気の先生である。あえて言えば、(外見は全く違うが)ジロー先生の雰囲気に似ている。やはり出身校のエートスというのはあるのだ。
 私が西原先生を訪ねたのは、あれこれ考えるに、(希望的観測としては)これから四半世紀分は残っている研究者生活のバックボーンとして、やはり現象学をきちんとやっておきたいのだが、これまでの私の学問歴からして、純粋な現象学よりは現象学的社会学をベースにした方がいいと思ったからだ。しかし、どういうわけか現象学的社会学をやっている人は、たいていいつの間にか、違う分野のことを始めている場合が多い。山口節郎先生しかり、江原由美子氏しかり。その点、西原先生は、現象学的社会学の微細な襞にまで分け入りつつ、かつ、現象学そのものの諸科学のコンステレーションの中での位置づけを常に確認されつづけている。他にも私の私的事情もあったとはいえ、現象学的社会学の基本文献を読みつつ、湧いてきた疑問点を明らかにしたり、湧いてきたアイデアの妥当性を確認するには、西原先生の教えを請うのが一番であると判断したのである。(環境学研究科に所属する現象学的社会学者という先生の位置からして、N大K学部の文系最左派の私の立場とかなり近いのではと勝手に推測したというのもある。それはたぶん当たらずといえども遠からずだった)。
 水曜の午後に先生の研究室を訪問させていただき、その後、本山の「風来坊」で食事をご一緒させていただいた。一貫して感じたのは、「通説」や「定番」に対し、自分の立場から批判的眼差しをもって再検討される先生の学問的姿勢のぶれのなさである。これは社会学者にとって最も重要な構えである。
 飲み屋に移ってからは、廣末渉が『現代思想』に現象学的社会学について連載している時の先生の「個人的経験」とか、丸山圭三郎のカラオケの上手さといった、田舎教師には決して経験できないようなエピソードを交えながら、先生の学問の考想を披露していただいた。私の方では、阪大時代のエピソードしかお話しすることができなくてとても情けなかった。
 思うに、西原先生の強さというのは、現象学的社会学という知的バックボーンに自信を持っているところからくるのだろう。それに比べると私の場合は、せいぜい広くて浅いバッククラウンドであって、いつの間にか背骨になるものが希薄になってきているとつくづく感じた。確かに、私はフリッシュについて徹底的に読み込んではいるが、フリッシュはそもそもバックボーンになりうる思想家というよりは、バックボーンのゆがみを確認するための(知的)体操の先生といった感じの人なので、思考の「型」を作るには向いていないのだ。
 何はともあれ、西原先生の元でしばらく勉強する機会が得られることを祈るのみである。

03/03/16(日):相対主義の運命


 岡真理の『彼女の正しい「名前」とは何か』(青土社、2000年)を読んでいて、びっくりしたのは、最近では、「文化相対主義」が「無批判な自文化中心主義のレッテル」(岡 [2000: 45])として使われているということである。(それどころか「原理主義」のレッテルとして・・・)
 私の学問的出発点はきわめて<相対主義的>なものであったし、今でも基本的にはそうである。しかし、そこには、エスノセントリズム(自文化中心主義)に対する批判的なモメントが確実にあった(し、今もあるはずだ)。
 その時点で既に、<相対主義>は価値中立的なものにとどまることはできないことには気がついていた。それどころか、エスノセントリズム的な居直りへと頽落してゆく可能性があることもわかってはいた。
 しかしそれでも、<相対主義>的なスタンスから出発しないと、「他者」との対話などありえないと私は考えていたのだ。本質的に異なるリアリティの出会いや衝突や受容が当時の私の中心的な関心であったが、そこでは「自分にとっては奇妙なもの、つまらぬものにしか見えぬものが、他者にとっては、切実な時には命がけの問題であるのはなぜか」という問いにきちんと答えるために、まずは、自分のものの見方の自明性を括弧に入れることが必要だったのだ。
 細かい書誌的データは忘れたが、吉本隆明と栗本慎一郎が『相対幻論』という対談を出版したとき(装丁を糸井重里が担当していたと記憶する・・・)、(たしか)岡庭昇という男が、この本のことを「相対主義者の幻論」と揶揄していたが、私はその時初めて、「相対主義」が否定的な意味合いで使われうるというのを知った。
 そしていつの間にか、「相対主義者」は「自文化中心主義者」と同じ意味で使われるようになってしまった。
 念のために妻に、「相対主義ってどういう意味だと思う?」と訊いてみたが、彼女もやはり、「自文化中心主義」という意味で理解していた。
 だとすると、<相対主義者>を気取ってる私は、エスノセントリストとして受け取られていたということか・・・・
 しかし、考えてみると、これは最近集中的に読んでいる「歴史の物語論」とそれに対する批判、反批判という論争の流れの中で起きている現象と相似形である。
 私が留学に発つ直前(1996年)に知的興奮を覚えつつ読んだ、野家啓一の『物語の哲学』(岩波書店、1996年)が、1999年に帰国してみると、高橋哲哉や岡真理などによって、そのイデオロギー性(あるいは、価値中立的態度を装うことでかえって、イデオロギー的籠絡に耐性を失ってしまうこと)が激しく批判されていた(たとえば、高橋哲哉:『歴史/修正主義』、岩波書店、2001年)。フリッシュの物語論を野家の議論に結びつけることで、フリッシュの思考実験を広く人文・社会科学のコンテクストの中に置こうと考えながら、スイスの文書館でせっせと資料を集めて戻ってきたら、状況がずいぶん変わっているのでかなり驚いた。
 野家の「ヒストリーはストーリーである」というテーゼは、<神学的>な構造を持ったあらゆる歴史=起源とテロスに枠づけられた唯一の歴史に対する相対化の契機として機能するが、同時に、リヴィジョナリスト(日本だと「自由主義史観」を唱えて『新しい歴史教科書』を作ったりしている人たちに当たる)たちによって、恣意的な歴史を間主観的に共有させるために利用されもする。そのことはよく分かった。
 しかし、両者の議論を読み比べてみると、高橋や岡の批判は確かにもっともなのだが、野家の議論の「いいところ」、かっこよくいえば「可能性の中心」まで切り捨ててしまうのは「もったいない」という感想を強く持ってしまう。
 野家が『物語の哲学』の基礎に、柳田國男の近代批判を置いていることを理由にして、高橋は(中立性の陰に隠された)野家の思想のイデオロギー性を明るみに出そうとしている。
 確かに柳田は、民俗学者であると同時に戦前の天皇制を支えたエリート官僚でもあった。そして柳田の「常民の学」と天皇制とは結びついていたのかもしれない。その意味で柳田の思想は批判されるべき点はある。しかしだからといって、柳田の思想は全面的に否定されるべきものではないだろう。現に、「柳田國男の可能性の中心」は思想的立場を超えてさまざまな研究者に、学問的モデルを提供し続けているのである。
 ましてや、野家ははっきりと、「歴史の物語論」と「自由主義史観」の「対極に立つ」と言っており、彼なりの論証を行っているのである。なるほど、野家の論証は、高橋の批判にうまく答えられているとは言えない面を持っている。柳田とベンヤミンを同列に並べるのは私もかなり乱暴だと思うし、物語文の実例として、「私が提案した奇襲作戦は見方の部隊を勝利に導いた」というを挙げるというのは、高橋や岡だけではなくたくさんの人たちを苛立たせる(それどころか怒らせる)だろう。しかしそれでも、私は、「小さな物語のネットワーク」という野家のヴィジョンの魅力を切って捨てることはできない。(高橋は「法廷」とか「処罰」とか「裁き」といった語彙を連発するので、どうしても、「少しでも悪に染まった者は切って捨てる」という(メタ)メッセージが読み手に伝わってしまう)。
 現時点では、「物語」を閉じられた形式から解き放つこと、「虚構性のモメント」媒介にして「語りえぬもの」を「物語論」のロジックの中に組み入れること、この二つが可能になれば、高橋らの議論を野家の議論との応答的な関係の中に引き入れ、かつフリッシュ・ナラトロジーの位置をも明確にできるのではなかろうか、と予想している。(触媒となるのは、フロイトのトラウマ論だ。あと『ため倫』も)。


03/03/07(金):ワタシはワタシについて語りうるか


  内田さんが先日の日記で、どうして複数の他人の日記を自分のホームページのコンテンツに組み込んでいるのか、ということについて書いていた。ちょうどあわただしいときだったので、さっと流し読みし、後でゆっくり読もうと思っていたらもう次の日記に更新されてしまっていた。だから、正確な文言ではないのだが、

公的で均質な言説に対して、「私」の語りをネット上で展開すること自体はしごくまっとうな行為だが、その「私」の語り自体が閉じられ均質的で整合的なものに過ぎなければ、公的な言説と同じ構造を持つことになり、つまらない。だから、「私」的ホームページに、複数の「私」の日記を組み込むのだ
 
といった感じの一節があった(はずだ)。
 
(ただし、内田さんは自分のホームページのメインコンテンツは、いろんな「私」たちの日記だと書いていたが、それは違う。私の感触では、少なく見積もっても訪問者の八割は、内田さんの日記だけを読んでいなるのではなかろうか。あるいは掲示板の中の内田さんの書きこみを拾い読みしているだけだろう。無論、それぞれの「私」の日記とかるんちゃんの書き込みとかにコアなファンがいることは私も承知している。しかし、大半の訪問者はインテリゲンちゃんと同じように、頭脳の整体をするために、内田さんのテクストに自らの思考を共振させるためにやってくるのだ。内田さん自身にとってはどうであれ、訪問者たちにとっては他の日記はあくまでもおまけである。ただしおまけを集める趣味の人も間違いなくいるわけだから、それらの日記が無意味だというのではない。)

 私が自分のホームページを開設するにあたって一番悩んだのは、「語りのスタイル」をどのようなものにするかということであった。「出来事は一人称単数形式において経験される」というフリッシュのテーゼを自らの研究の基本に据える私にとって、この問題をあいまいなままにしておくことはできない。
 しかも、Iにしろ、ichにしろ、西欧の言語では一人称単数は一つしかないが、日本語には両手に余るほどの一人称単数がある。翻訳をするときなどはいつも頭を抱えてしまう。「僕はシュティラーじゃない」と「私はシュティラーではない」と「俺はシュティラーとちがう」では、一人称単数によって語られる世界のあり方全体が違ってくるのである。
 さらに言えば、日本語の場合、「文脈上明らかなときは主語を付ける必要はない」という原則がある。だから、文字としては空白の領域に一人称単数が住まうこともあるわけである。
 
 私個人に関して言うと、「どの一人称単数もどこかしっくりこない」という感覚がある。「私」にしろ、「僕」にしろ、「俺」にしろ、どれを使おうとそれは<ワタシ(内田さんなら「メタレベルの私」だと言うかもしれない。しかし私の感覚では、主観性(Subjektivitaet)と身体と場所の接点のようなものだ)>からのズレがありしたがって虚構がある。
 それだったらいっそのこと、<ワタシ>を分裂させてキャラ作りをした方がよりリアルである。そう考えた結果として、「ワタシ的日常」では頻繁に「私」が登場し、「Lesen・denken・schreiben」でも「私」は登場しはするが、基調としては主語は「空白」であり、掲示板では「僕」がすべての訪問者にレスを返し、内田さんのところではもっぱら二人称の受け手ウチダさんに向けて「僕」が語る、というスタイル(あくまでスタイルだ)がとられることになったのである。
 それぞれの一人称単数が置かれている「物語状況」は重なり合いながらもたくさんのズレを内包している。語る内容も、語りのコンテクストも、語りかける相手も、同一ではないのだ。つまり<ワタシ>の分身たる一人称単数たちは、互いを異化し、それどころか矛盾し合いさえするエクリチュールの中で「書き込み」をつづけるのだ。

 (無論、フィジカルな現実の中での私だって、複数に分裂している。)

 「ほんとうの私」など事実性のレベルではどこにもいないが、「複数の一人称単数」の変換=翻訳関係の果てになら、<ワタシ>の「構造」について「語り」うる場があるかもしれない。
 そしてこの変換=翻訳は、さしあたり<ワタシ>の内部に閉じられているように見えるかもしれないが、原理的には他の<ワタシ>へと開かれている。「語る」というのはそもそもそういうことなのだから。


03/03/07(金):「師」失格


 学内のFD研修の後、丸山公園横の「かたろう」にて熱研のM先生、純真のS先生、そして、私の直接面識のある知人の中で最もノーベル賞に近い研究者Dr.ヤンコと会食。同僚でも同業者でもない人たちと話すのは楽しい。とりわけドクサが相対化される瞬間はスリリングですらある。料理も秀逸だし酒もうまい。ママさんもよくできている。いい店である。
 溝田、鈴木両先生とわかれた後、河岸を変えてDr.ヤンコと医療と援助のありかたおよび学位論文の位置付けについて語る、はずだったのだが、大学をクビにされるのなら、どういうされかたが一番いい(oder besserまし)か、という話で盛り上がってしまい、閉店で追いだされて、タクシーに乗りこんでからもこのネタを話しつづける。
 日付がとっくに変わった頃に大学に戻り、『レヴィナスと愛の現象学』を読んで来たるべき「師」との出会いに思いをはせていた遥山君の邪魔をし、放言を尽くして、すっきりしたので帰って爆睡。


03/03/05(水):ゲンちゃんもこんなにわかっていいかしら


 一週間遅れで、2月23日の朝日の「ブックラック」を読む。先週、一週間、あたかも読んだような顔をしていたが、実は、チッペからの話の受け売りだったのだ。長崎では毎日をとっているのだが(朝日は茜屋でも名古屋でも読めるし、阪神ファンとして読売だけはとりたくない。日経は高い。)、その結果、週末に名古屋に戻らなくてかつ茜屋にも行かなかったりすると、朝日の書評ページを読み損ねることになる。茜屋は月曜朝に一週間分の新聞を片づけてしまう。大学図書館や事務室も日曜の新聞は置いていないのである。
 ゼミ生諸君はピンときていなかったようだが、慧眼の書評家、高橋源一郎にあそこまで絶賛されるというのは、「物書き」としては最高の栄誉なのである。

(高橋の作家としての力量は正直言ってよくわからない。しかし、彼の書評は再考に分析的でかつわかりやすい。「文学ってよくわからない」という人は、何としても『文学がこんなにわかっていいかしら』(福武書店、但、版元品切れ中)をひもとくべきである。文学研究科在学中に、「頭がクリアじゃなくなってるなと思った時、それをめくり、その思考の美しい(スウィングの)軌跡を追い、乱れた自分のフォームをチェック」したことが何度もあった。)

 高橋は、<「おじさん」的思考>を「徹底した査察にによる思想の平和的武装解除」と等置している。『おじ的』の読者は日本中に何万人かいるだろうが、「査察による武装解除」の比喩を使って、この本を形容したのはおそらく高橋が初めてだ(私の知る限り)。ウチダのたっちゃんとインテリゲンちゃんが、(少なくとも今のところは)遠く離れたところで、互いを参照項として「スウィングチェック」をしているのは、二人が共に類い希な「関係的同一性思考」の名手だからだろう。
 にしても、マスコミに就職しようと思っているのに、ゲンちゃんのことを全然知らんというのは困るよ。


03/03/04(火):メディアとしての電話再考

 ここ半年ほどの間に、響一郎はひらがな、カタカナと数字が読めるようになった。で、「ぎふのおばあちゃん 0584×××」「おとうちゃん 095842××」「まさるくん 802××」といった感じで、広告の裏にリストアップした「電話帳」を使って、自分にとっての「重要な他者たち」の声を「聞きたいときに聞ける」という状況を楽しんでいる。
 昨日も「やまぐちのおばあちゃん」に電話するといって、自分でダイアルを押し始めた。通りすがりに何気なくディスプレイを見ると、表示された下四桁が、広島に住む私の弟の番号になっている。一行見間違えているのだと思ったが、いとこの「いよちゃん」とひさしぶりに話をするのも悪くなかろうと考え、そのままにしておいた。
 受話器から聞こえてくる声は、女性の声である。それもどうやら大人の声である。とすれば、「むつみおばちゃん」以外には考えられない。
 はじめのうちは、保育園での出来事や、今度会えるのは何時か、といったことをなごやかに話していた。しばらくして、横で食後のワインをチビチビやっていた私は、またしても自分の弟の誕生日を忘れてしまっていることに気がついた。二月生まれなのは確かなのだが、いつも日にちを忘れてしまうのである。(無論、お互いに誕生日だから電話をするとか、ましてや、何かを贈るといった習慣は全くない)。で、何気なく受話器を持った響一郎に声をかけた。

 は:ねえ、つもりおじさんの誕生日っていつだったか聞いてちょうだい。
 き:あのねえ、つもりおじさんのたんじょうびっていつだったけ?
 <間>
 き:いちがつとおかだって。
 は:え、それはへんだよ。つもりおじさんのだよ。
 き:だってそういってるもん。
 <一分近い間。響一郎は会話を続ける>
そのとき私ははたとある可能性に気づいた。
 は:ねえ、ちょっとおとうさんに替わって。
 き:おうさんがかわるって。
 は:<受話器を受けとって> あの、失礼ですけど、もしかして間違い電話を長々としてしまったん  じゃありませんか?
 声(中国地方なまりの中年から初老の女性):あら、やっぱりそうでしたの。なんか話がかみ合わな  いと思ってたんですよ。ほほほ。
 は:どうも失礼しました。子どもの間違いということで、お許しください。<受話器を置く>
 き:どうしてきっちゃうの、ぼく、もっとおはなししたかったのに。
ディスプレイの通話時間の表示を見ると11:31とある。

 この数字は、私がこれまでに経験した間違い電話の会話持続時間を大幅に更新している。あの女性は、よほど暇だったのか、それとも人並み外れて気が長いのか? 間違い電話を時間の無駄だとしか考えない現代人が間違っているのか? 間違い電話をかけてきた相手と会話を楽しむというのは極めてコミュニカティヴな行為なのではなかろうか? ゼミでやってアンケート調査の質問項目に、「あなたがこれまでに経験した間違い電話の会話持続時間は最大でどれくらいでしたか」とか「間違い電話がかかってきたときどのような応対をしますか」といった項目を入れておけばよかったかもしれない。


03/03/04(火):とある一日


 朝食の後、子供たちを保育園に送り届け、帰宅する。まだ、10時にもなっていない(とはいえ我が家は響一郎たちのクラスで「朝が遅い家ベスト(ワースト?)3」に入っている)。イタリアンローストをすすりながら新聞を眺めた後、布団の上に寝そべって、『無神論と疎外』を読み始める。30ページばかり読んだところで眠くなってきたので、寝る。目が覚めたら11時50分。それから一時間ばかり続きを読んだ後。腹が減ってきたので、もそもそと起きあがって、朝食の残り物を暖めて食し、プーアールティを二杯飲み、また布団に寝そべって続きを読みつづける。気がついたら30分くらいうとうとしていた。トイレにだけ行って、また続きを読む。薄暗くなってきたので時計を見上げると、5時過ぎだった。ちょうどチッペが戻ってきて、急な法事に行かねばならない、とのことだったので、夕食の材料がそろっていることだけ確認してから、彼女を駅まで送り、そのまま保育園に向かう。夕食はトマトとオリーブのたっぷり入ったスパゲッティにするつもりだったのだが、子どもたちが、「リンゴスパゲッティ」がいいと言い出したので、リンゴの皮を剥かせ、それを細かく切って、トマトとオリーブソースの中にぶち込み、開き直って、バルサミコと赤ワインもドボドボ入れて、弱火で煮込む。味は悪くはないが、オリーブがリンゴに完敗している。子どもたちは「自分たちが考えて作った」と思っているので、うれしそうにバクバク食べている。食べ終わって、くつろいでいるところに、チッペから電話。駅まで迎えに行って、パスタを一人前ゆでて、「リンゴスパゲッティ」ソースの残りをかけ、ワインだけは新しいのを開けて乾杯。風呂に入って、みんなでさっさと布団に入る。みんなが寝付いた後で一人起き出して、本の続きを読もうと思っていたのだが、目が覚めたら朝だった。


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